ええじゃないかと幕末の新興宗教

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ええじゃないか

慶応3年(1867)も後半になり、幕末の動乱が激しくなると、庶民の間にある運動が起こりました。

「ええじゃないか」です。

事の発端は慶応3年(1867)、8月下旬、「皇大神宮」と書かれた御札が天から降ってきたという噂が名古屋あたりで流れました。これは吉兆であるとして、「ええじゃないか」といって民衆が踊り狂いました。この流れが東は江戸・横浜、西は京・大坂・西宮まで、全国に広がっていきます。

「ええじゃないか、ええじゃないか」

太鼓をたたき、笛を吹き、三味線をかき鳴らして練り歩き、「ええじゃないか、ええじゃないか」といって、金持ちや庄屋の家に上がりこんでは、勝手に飲み食いし、金目のものをふところに入れ、入られたほうも「ええじゃないか」といって見過ごし、ええじゃないか、ええじゃないかの末に、去っていきます。

踊り疲れると人の家でも構わず寝てしまい、目が覚めるとまた「ええじゃないか」と踊り続けるというありさまでした。役人が止めてもまったく止まりませんでした。

「ええじゃないか」が特に激しかった京・大坂・西宮は長州と幕府方が向かい合い緊張が高まっていました。だから「ええじゃないか」は、長州など倒幕派が幕府の目をくらますために起こした騒動ではないか、とも言われています。しかし証拠はありません。

幕末の新興宗教

右も左もわからない。明日はどうなるんだ?その、混乱し緊張した世相が、庶民をおいつめ、宗教に救いを求めさせたのかもしれません。

「ええじゃないか」のほかにも、幕末には今日まで続くいくつかの新興宗教が生まれています。天理教と金光教は、今日もよく知られていますね。

天理教の教祖・中川みきは、大和国に生まれました。天保年間に神がかり状態になったのをきっかけに、布教を開始。加持祈祷で病気を治す「りんてんのう」への信仰を説き、人間は平等で助け合うべきと説きました。元治元年(1864)以降、農民・職人など社会の下層の人々を中心に、信者が増えていきました。

神前で拍子木を叩き、「なむ、りんてんのう」と唱え、後には神道系に切り替え「悪しきを祓い、助けたまえ、りんてんのうのみこと」と唱えました。

明治に入ると官憲から弾圧され、中川みきも捕らえられたりしましたが、明治41年(1908)に神道の一派として認められました。奈良県天理市に本部を置き、現在は全国に教会があります。

金光教の教祖赤沢文治(旧名 川手文次郎)は備中(岡山県)に生まれました、喉の病にかかったので神に無礼をわびたところ治ったので神に感謝すると、神と人の間の「取次者」としての活動を命じられます。

以後、赤沢文治は山陽道を中心に、農民や商人に信者を増やしていきました。その教えは金神(こんじん)を天地の神として信仰し、神と人との助け合いを説くものです。

神と人との「取次」をする、「取次者」の存在が、金光教の大きな特徴と言われます。

赤沢文治は明治元年に金光大神の称号を与えられ、文治の死後、明治33年(1900)に金光教として、独立。神道の一派として認められました。本部は岡山県浅口市金光町にあります。

次回「王政復古のクーデター」に続きます。

解説:左大臣光永

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