長州藩、攘夷を実行

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文久3年(1863)5月、長州藩が馬関(下関)海峡で、アメリカ・イギリス・オランダの船を相次いで砲撃しました。彼らにとって念願の「攘夷」の実行でした。

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いきり立つ長州尊王攘夷派

文久3年(1863)3月、将軍徳川家茂が上洛し、4月まで京都に滞在しました。この間、、孝明天皇以下、京都の尊王攘夷派の公卿たちは、将軍後見職・一橋慶喜にしつこく要求しつづけました。

攘夷を行う期日を決めよと。

ここで、彼らのいう攘夷とは、条約を破棄し、外国船を無差別攻撃し、外国人を殺害することをさします。

「ああ困ったなあ。弱ったなあ」

頭を抱える一橋慶喜。

もう諸外国と通商条約まで結んでいる状態で、今更攘夷などできるわけがない。外国と戦っても万に一つも勝ち目などなく、攘夷など時代錯誤もいいところでした。

しかし孝明天皇以下、京都の尊王攘夷派は現実が見えていませんでした。攘夷、攘夷としつこく慶喜に迫ります。

慶喜は何度もはぐらかし、返事を引き伸ばしますが、引き伸ばしも限界に来ました。

そこで苦し紛れに答えました。

「攘夷の期日を文久三年五月十日とする」

そう言って、慶喜はさっさと江戸に引き返してしまいました。

慶喜としては攘夷といっても、すでに開港している港を閉じるよう、外国と談判する、くらいの考えでした。

つまり武力をふるうのではなく、あくまで交渉によって外国と縁切りできるよう持っていこうと慶喜は考えていました。

しかし天下の尊王攘夷派はそうは考えませんでした。条約の破棄。外国船の無差別攻撃。外国人の殺害。それが彼らの言う、攘夷でした。

特に長州藩では尊王攘夷派がいきり立っていました。

「いよいよ幕府の許可がおりたぞ!」
「外国人を殺して、殺して、殺しまくるぞ!」

アメリカ船砲撃

文久3年(1863)5月10日が来ると、長州の尊王攘夷派はさっそく攘夷の火蓋を切ります。この日の夕方、アメリカの商船ペンブローク号が、周防灘から馬関海峡を通過しようとしていました。

しかし風波を避けるため、豊前国田野浦沖で一時錨をおろしていました。この時、長州の急進派・久坂玄瑞らは軍艦庚申丸・癸亥丸(きがいまる)に乗りこみペンブローク号を砲撃しました。

ドゴーーン

「なんだ!砲撃?どこから?」

ペンブローク号は大慌てで錨を巻き上げ、豊後水道に撤退していきました。庚申丸・癸亥丸はペンブローク号を追いましたが、追いつけませんでした。船の馬力に差がありすぎました。

フランス船砲撃

5月23日早朝、豊浦沖に停泊中のフランス軍艦キンシャン号は、前田砲台・壇ノ浦砲台・専念寺砲台から、

ドゴーーン

いきなり砲撃を受けました。

「ナニゴトダこれは!!」

不意をつかれたキンシャン号に、さらに、

ドゴーーン、ドゴーーン

庚申丸・癸亥丸が砲撃しながら迫る。

「なぜ砲撃するのか。わけをききたい」

キンシャン号はボートをおろすも、

ドッカーーン

砲撃され、粉々に砕け散りました。

ドゴーン、ドゴーーーン

砲弾は容赦なく、撃ち込まれます。四名の死者が出ました。キンシャン号は命からがら西へ向かい、玄界灘まで逃げ延びました。

オランダ船砲撃

オランダ軍艦メデューサ号の艦長は、フランス軍艦キンシャン号が砲撃されたいきさつを聞きました。

「それはフランスの話でしょう。オランダは古くからの日本の友好国だ。フランスとは違う。まさかオランダの船を砲撃はしないでしょう」

5月26日、メデューサ号は馬関海峡に入りました。

ドゴーーン、ドッコーーーン

たちまち、長州藩砲台や庚申丸・癸亥丸からの砲撃を受けます。

「バカな!オランダの船を砲撃するなんて!」

死者3名、重傷者5名が出てました。たまらずメデューサ号は玄界灘まで逃げ延びます。

朝廷と幕府、それぞれの反応

「なあんだ、外国は弱いなあ」
「我らの勝利だ!」

長州藩兵の士気は大いに上がります。

「磨き上げたる剣の光 雪か氷か下関」当時、こんな歌がはやったそうです。磨き上げた剣の光が雪か氷か霜のように下関に輝いている。霜と下関をかけた、たわいもない歌です。

5月27日、長州藩は久坂玄瑞を使者として、朝廷に報告します。

期日通り、外国船を打ち払いましたと。

これに対して6月1日、朝廷から、長州藩に返事の御沙汰書が届きます。

兼て御布告これあり候、拒絶の期限、相違なく掃攘(そうじょう)に及び候段、叡感(えいかん)斜(なのめ)ならず候、弥以(いよいよもって)勉励これありて、皇国の武威を海外に輝かすべき様、御沙汰(ごさた)候(そうろう)事。

かねて布告してあった攘夷の期限に、間違いなく外国船を打ち払ったことに、天皇はたいそうお喜びである。いよいよ励んで、皇国の武威を海外に輝かせよとのお言葉である。

つづいて6月6日、朝廷から諸藩に対し、「長州を応援するように」とのお達しが出されました。

一方、幕府では。

老中水野忠精が、長州藩大坂留守居役にむけて、長州藩の行為を激しく非難しました。

猥(みだ)りに兵端を開候ては、御国辱を引起し候に相当(あいあたり)、以ての外

軽々しく戦をはじめては(外国に敗れるという)国辱を引き起こすことになる。とんでもないことだと。

老中、大激怒です。

しかし長州藩は老中に反論します。

「そもそも国辱とは、戦いの勝ち敗けによるのではない。国の「正気」が充満しているか否かが、問題なのだ」

勝ち負けではないと。筋とおして死ぬなら名誉も守れるだろうという話です。勇ましいことです。しかしこんな考えで外国と戦がはじまったら、たまったもんじゃないですね。

アメリカ・フランスの反撃

「こんなことは、国際法上許されない!」

アメリカ行使プリューインは、ただちに横浜にいるアメリカ軍艦ワイオミング号を出港させます。

6月1日、ワイオミング号は、馬関(下関)海峡に入り、軍艦庚申丸・壬戌丸(じんじゅつまる)を撃沈。癸亥丸を大破。さらに亀山砲台に猛攻撃を加え、これを大破。4日、横浜に帰還しました。

ワイオミング号の発射した砲弾は、「10分間に55発」と記録されています。はじめて体験する外国船の威力に、長州藩士たちは絶句したことでしょう。ただしアメリカ側にも10数名の死者がこの時でています。

報復は一回で終わりませんでした。

6月5日、フランス軍艦タンクレード号・セミラミス号が馬関海峡に入り、長州藩前田砲台を砲撃。ついで陸戦部隊250人あまりが上陸。

正午には壇ノ浦砲台と前田砲台を占拠。弾薬を海に投げ捨て、刀・鎧甲・火縄銃などを奪いました。

この時、フランス海軍士官アルフレッド・ルサンの回想によると、長州藩の兵舎のテーブルにはオランダ語の戦術書があり、「軍艦が急激なる潮流と戦いつつある場合」というページが開いたままだったといいます(『英米仏蘭連合艦隊幕末海戦記』)。なんと、マニュアルみながら大砲撃ってたようです…

とにかく、長州の惨敗でした。長州人は欧米列強の力を思い知りました。

奇兵隊結成

ここで普通なら取り乱すところですが、長州藩主毛利敬親(たかちか)・定広(さだひろ)父子は取り乱しませんでした。

亡命の罪で謹慎中の高杉晋作を山口城に呼び、謹慎を解き、

「下関の防備を固めよ」と命じます。

6月6日、高杉晋作、下関着。

来島又兵衛(きじま またべえ)とともに、武士も町人も農民も関係ない、身分にとらわれない戦闘組織「奇兵隊」が結成されます。

次回「薩英戦争」に続きます。お楽しみに。

■日本の歴史~崩れ行く江戸幕府
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八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。江戸幕府後半約130年間の歴史の流れを32話に分けて解説した音声つきdvd-romです。

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松尾芭蕉の紀行文『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更級紀行』

そして近江滞在中のことを描いた『幻住庵記』、嵯峨の落柿舎の滞在記録『嵯峨日記』の、原文と、現代語訳、解説をセットにしたCD-ROMです。

■京都講演~菅原道真 6/22
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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
第一回は「菅原道真」です。

解説:左大臣光永

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