武田信玄と上杉謙信(二) 父を追放

初陣 海ノ口の戦い

天文9年(1540)5月、武田信虎は8千の騎馬隊を率いて佐久から信濃に侵攻します。これまでも信虎は何度か信濃攻略を試みましたが、なしえていませんでした。

海ノ口城攻略
海ノ口城攻略

「今回こそ信濃を手におさめる」

どかか、どかか、どかか、どかか!

この戦で若き武田晴信も初陣を飾りました。若武者のさっそうたる姿に、武田家臣団も

「おお…」

士気上がることいちじるしいものがありました。

守役の板垣信方は、

「若殿、立派になられた…」

涙が込み上げたことでしょう。

「一日に三十六城を落とした」とまで言われる勢いで、武田騎馬軍団は次々と城を落としていきます。しかしこの遠征に対して、甲斐国内では恨みの声が多くありました。

「また戦か!」
「この苦しい時期に…ぶつぶつ…」

敵方海ノ口城には、猛将平賀源心(ひらがげんしん)がたてこもって抵抗していました。

「武田のこわっぱめ!蹴散らしてくれるわ!」

ワァーーーー

ワァーーーーーー

武田方、必死に攻めますが、何日かかっても海ノ口城を落とせません。その上、雪が降ってきました。

「このまま冬になっては大変です。
ここはいったん退きましょう」

「ううむ。いたし方あるまい」

信虎が撤退を命じようとした、その時、

「それがしに殿(しんがり)をお命じください」

ざあっと武田家臣団諸将が声のしたほうを見ると、

若殿・武田晴信でした。

「殿じゃと?」

父信虎は言います。

「バカを申すな。この雪の中、敵は追撃などして来ぬわ。
殿などしても、何もやることはない。
お前は何を言い出すのか」

「いえ、それがしに殿をつとめさせてください。
必ず、やる事はございます」

「ああ、そんなに言うなら勝手にせよ」

こうして武田晴信に殿をつとめさせることになりました。

信虎の本隊は甲斐に引き上げていき、晴信は300の兵を与えられ、殿をつとめることとなりました。

「バカバカしい…この雪の中、敵が追って来たりするもんか」
「殿なんてやっても、やることは無いよなあ」

兵士たちはぶつぶつ言っていました。

翌朝。

武田晴信は全軍に命じます。

「これより海ノ口城を攻める!」

(ええっ…攻めるって何だ!?俺たちは殿をするために、ここにいるんじゃないのか?)

この少人数で城を攻撃する。

前代未聞のことでした。

しかし、武田晴信は断固としてやるのでした。300の兵を率いて、大雪の中、海ノ口城に攻め上っていきます。

その頃、海ノ口城は宴会の最中でした。武田軍が撤退したということで、油断しきっていました。

「はっはっは、武田も、言うほどはないですなあ」
「まったくです。甲斐の山猿どもに、何ができるものですか」

酒がうまいうまい、何てことを言っていた。その時!

「武田軍が!攻め込んできました!」

「なに!撤退したのではなかったのか!!」

わあーーーーーーーっ

見ると、城の周りに武田の旗が所せましと、たなびいていました。

武田晴信は数を多く見せるために、たくさんの旗を立てたのでした。

「そんなバカな!!」

ヘタヘタと倒れこむ平賀源心。

こうして海ノ口城は落ちました。

躑躅ヶ崎館帰還

「晴信さま、ご帰還ーーーーッ!!」

武田晴信は意気揚々、躑躅ヶ崎館に引き上げてきました。

「なに晴信が!?」

武田信虎は驚きますが、すぐに息子武田晴信を迎えます。

「太郎、殿はどうなったのだ?」

「父上、お喜びください」

武田晴信、スッと入れ物を差し出します。

「ん?なんじゃそれは?」

「敵将・平賀源心の首でございます。ご実検ください」

「なに!?あれだけの数で海ノ口城を落としたというのか?」

周囲はほめそやします。

「さすがはご嫡男」
「やりますなあ」

さあ父も誉めてくださるぞと期待していた武田晴信、しかし

「愚か者が!!…城を落としたなら、なぜ城に留まって戦わぬ!
次郎ならきっとそうしていたであろう。
この臆病者めが」

「はっ、申し訳ございません!!」

晴信、額を床にこすりつけて父信虎に謝ります。

(俺は…何をしたって父には認められないのだ…)

唇を噛みしめる武田晴信、20歳。

信虎の圧制

佐久攻めの成功に勢いを得た武田信虎は、翌天文10年(1541)5月、第二次信濃攻略を敢行。佐久を経て小県(ちいさあがた)まで駒を進めました。しかし、打ち続く外征に、甲斐の領民は疲れ切っていました。

小県攻略
小県攻略

「ひもじい」
「苦しい」
「こんな時にまた遠征なんて…」
「食うモノもまともに無いってのよお…」

躑躅ヶ崎館では武田家重臣たちが頭を抱えていました。

「信虎さまはますますガンコになられ、我々の言うことをお聞きにならない。
やはりここは…晴信さまに家督を継いでいただくしか」

武田信虎は智慧の回る次男晴信よりも次男信繁を愛し、家督を継がせようと思っていました。しかし武田家臣団の多くは長男の晴信支持でした。

何とか血を流さずに家督相続ができないものか?

板垣信方はじめ武田家家臣団は晴信に打ち明けます。

「若殿、武田の家督を継いでくだされ」

「なに?我に父を追放せよと申すのか?」

「領民は苦しんでおります。信虎さまの世は限界です。どうか若殿、
甲斐の領民のために立ち上がってくだされ」

「うむむ…わかった。武田晴信、甲斐の民のため、
親不孝の汚名をあえてこの身に受けようぞ!」

父を追放

決行の機会は、案外早く訪れました。信濃小県(いちさあがた)の戦いから武田父子が帰還してすぐの、翌天文10年(1541)年6月14日、武田信虎は娘婿の駿河の今川義元を訪ねて駿府に向かいました。

信虎の娘で、武田晴信の妹にあたる女子が、今川義元に嫁いでいたのです。もう孫も生まれていました。久しぶりに娘夫婦と孫の顔を見るということで、さしもの気性の荒い信虎も、ノホホンと頬がゆるんでいたことでしょう。

帰り道。

駿河と甲斐の境の河内路(かわうちじ)にさしかかった時、

ガシャ、ガシャガシャガシャ

足軽の一団が槍を持って信虎の輿のまわりを固めます。その先頭に立つのは…板垣信方でした。

「信方!これは何の真似じゃ?無礼者が!」

「これより先は入れるなと、若殿から仰せつかっております」

「なに晴信が?…正気か…親を追って国を奪うとな。
ふん、それもよい。…引き揚げろ!」

「殿…かたじけない!」

おとなしく信虎は駿河に引き揚げていきました。以後、信虎は二度と甲斐の地を踏むことはありませんでした。

しかし追放されたといっても、信虎の駿河における待遇は悪いものではありませんでした。今川義元に対して武田晴信は、くれぐれも父のことを頼むと、お願いしてありました。だから信虎はゆうゆうと隠居生活を楽しむことができました。駿河の空の下で、

「晴信よ、お前の活躍を見ておるぞ。好きなだけやってみろ」

そんなふうに、つぶやいていたかもしれませんね。

「新当主・武田晴信さま、ばんざい!」
「信虎の時代は終わった!」
「自由だ!!」

ワアーーーーーーッ

甲斐の領民は今回の武田信虎追放劇に、おおむね好意的でした。武田家臣団の中にも反対する者はいませんでした。弟の信繁と信廉(のぶかど)も、

「わしは親を追放した。一生かかってもぬぐえぬ汚名を背負ったのだ。
それでもお前たちはわしに、ついてきてくれるのか?」

「兄上の行く所、我々はどこまでも着いていきます」

ガシィ

手に手を取り合う武田三兄弟。

17日、武田晴信は離れ屋敷から躑躅ヶ崎館に入り、正式に武田家第19代当主の座に着きました。

武田信玄
武田信玄像 甲府駅前

解説:左大臣光永