豊臣秀吉(七) 羽柴秀吉となる

羽柴姓を名乗る

この頃、信長が秀吉を呼んで言います。

「猿もいよいよ国持ちじゃのう。もういつまでも猿と呼ぶわけにもいくまい。名字を名乗るがよい」

「名字でございますか」

「何か考えがあるか」

「では、羽柴というのは?」

「羽柴…なんじゃそれは」

「ここにおられる丹羽長秀さまと、柴田勝家さまから一字ずついただきたく」

「ぐぬう…」
「うむむ」

まんざらでもない丹羽長秀・柴田勝家。

以後、羽柴秀吉となりました。

長浜城築城

「さて…せっかく信長さまにいただいた小谷城じゃが…
どうにも不便でいかん」

小谷城は山の上にある山城でした。敵の攻撃を防ぐにはよくても領国支配には向いていませんでした。

そこで秀吉は翌天正2年(1574)、琵琶湖のほとり今浜城に居城を移します。

今浜城は浅井氏の前に北近江を支配していた守護京極氏の重臣・上坂(こうざか)氏の城です。秀吉はこの今浜城を拡張し、長浜城と名をあらためました。今度は平地に立つ平城でした。琵琶湖の水運を握り、商業を発達させるには、琵琶湖湖畔の平城である長浜城はうってつけでした。

石田三成

城という器が整うと、秀吉は人材登用にはげみます。

13万石の大名となったからには、それに見舞う人材が必要でした。

有名な逸話があります。

この頃、秀吉は一日鷹狩に出ていて、喉が渇いていた。

そこで、長浜の観音寺という寺に入る。

「誰かある。茶を点じて来たれ」

呼ばれて出てきた童、大きな盆に七八分、ぬるく茶を立てて持ってきた。

「ごくり…ごくり…うまい!今一服」

言われて童、前よりは少し熱くして茶碗半ばに少し足らないくらい茶を立てて持ってきた。

「ごくり…ごくり…ごくり…うまい!今一服」

言われて童、今度は小さな茶碗に縁近くまで熱い茶を立て持ってきた。

秀吉はこれを飲み、

「うむむ…この童、使える。住職、この稚児をわしは召し使おうと思うぞ」

これが後の石田三成であったと(『武将感状記』)

まあこういった逸話の常としてほんとか嘘か怪しいところですが…三成が子供の頃から才覚すぐれていたことを寓話的に語ったエピソードといえましょう。

手取川の合戦で柴田と対立

天正5年(1577年)9月、信長は越後の上杉謙信を討つため、北陸方面軍司令官として柴田勝家を派遣しました。

秀吉も柴田勝家の加勢に来ていましたが、秀吉と勝家とで、モメます。

「柴田殿、上杉謙信を甘くみてはなりません。このやり方では損害が出るばかりです」

「なにッ、文句があるというなら帰ればいい」

「ふんっ、じゃあ帰らせてもらいます」

秀吉は勝手に軍勢を引き上げてしまいました。

さすがの信長も、今回の秀吉の行動はけしからんと、謹慎を命じました。

思えばこの頃から秀吉は柴田勝家とそりがあわず、後の賤ヶ岳合戦の下地ができていたようです。

解説:左大臣光永