康暦の政変 細川頼之の失脚

元服

翌年改元あって、応安元年(1368)4月、義満は元服します。三か月にわたる盛大な祝儀が行われ、朝廷から勅使が遣わされました。同年12月、義満は征夷大将軍に任じられます。足利三代目の征夷大将軍。時に義満12歳でした。

「よし」

ほくそ笑む管領細川頼之。将軍の権威づけを狙う頼之としては征夷大将軍の号は早めに得たいものでした。

鎌倉公方と関東管領

同年、関東では足利基氏の息子が元服して氏満と名乗っています。足利尊氏は、わが子義詮の器量に不安を感じ、関東の守りとして鎌倉府を設置しました。その長官を鎌倉公方といい、初代鎌倉公方をつとめたのが義詮の弟である基氏です。以後、代々の鎌倉公方は基氏の直系の子孫が世襲していきます。

将軍家と鎌倉公方家
将軍家と鎌倉公方家

また、鎌倉公方の補佐役を関東管領といいます。これら鎌倉公方・関東管領は、もともと京都の足利政権を補佐するために設置されたものでした。しかし後には独自の勢力を持ち、京都の足利政権と対立するようになっていきます。

南朝の動き

南朝の後村上天皇は正平23年(1368)3月、住吉の行宮で亡くなりました。何度も京都奪還を目指し四度も京都を占領しながら、志果たせず、無念のご最期でした。ついで、後村上の皇子長慶天皇が南朝の主となります。

「私が即位したからには、今までのようななあなあではいかん」

長慶天皇についてはほとんど記録がなくわからない所が多いのですが、北朝に対しては厳しい強硬路線だったようです。そのため、北朝と講和をすすめいてた楠正儀(くすのきまさのり。楠木正成の三男)は南朝を追放されてしまいます。以後、南朝との争いが、また激しくなっていきます。

九州の情勢

一方、九州では懐良(かねよし)親王の南朝勢力が幕府に抵抗していました。懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、もともと後醍醐天皇が南朝の勢力を各地に分散・潜伏させ足利幕府に抵抗させるために征西大将軍と称して派遣したものでした。

足利尊氏・直義の時代に九州で力をたくわえ、懐良親王は一大勢力となっていました。義詮の時代に入って鎮西探題として斯波氏経、渋川義行が、派遣されますが、いずれも懐良親王に撃退されました。また懐良親王は明と独自に貿易を行い、明から「日本国王」と称されるほどの勢いでした。

ここに至り管領細川頼之は、今川了俊を新たな九州探題に銘じます。

「今川了俊。やってくれるか」

「ははっ。必ずや鎮西の賊徒どもに、思い知らせてやります」

応安4年(1371)、今川了俊は九州に赴任すると、翌年8月大宰府を占領し懐良親王の勢力を駆逐します。さらに菊池城も落として九州の南朝勢力を壊滅させました。

後円融天皇の践祚

同年応安4年(1371)、北朝の後光厳天皇はよほど世の中の情勢がメンドウになったのか

「譲位したい。次の天皇はわが皇子・緒仁(おひと)親王に」

そう言い出しました。ところが、伏見にいる崇光上皇も、わが子栄仁(よしひと)親王を位に着けたいと、幕府に打診してきます。

「さて、どうしたものか…」

管領細川頼之は迷ってしまいました。

後円融天皇の践祚
後円融天皇の践祚

三代執権北条泰時以来、歴代の鎌倉幕府執権は、皇位継承のたびに持明院統・大覚寺統の双方から「うちの天皇を」「いやいやうちの天皇を」と推薦を受け、大変な気苦労をしてきました。

「今こそ北条の方々の気苦労がわかるなァ…」

細川頼之、そんなこともつぶやいたかもしれません…が、結局、頼之は後光厳天皇の申し出を受け入れ、応安4年(1371)3月、緒仁親王を践祚させます。後円融天皇です。この時14歳。足利義満と同い歳です。

康暦の政変 細川頼之の失脚

細川頼之は、南朝に対しては講和路線であり南朝方が降伏してきた時は快く受け入れました。また天皇家の人事に対してもこのように気を遣って対処しています。将軍家の権威を高めることが第一と考え、義満に公家風の教育を授けたことも慧眼と言えます。総じて頼之は、気配りの人であり、しかしそれ故に、気苦労が絶えなかったようです。

そんな頼之の気苦労も知らず、幕府内では頼之に対する反発の声が大きくなっていきました。

「この頃は何でも頼之のやりたい放題だ」
「それでいて南朝への態度は弱腰じゃないか」
「頼之は管領にふさわしくない!」

あちらでもこちらでも、不平の声が上がるのでした。じゃあお前がやれ!怒鳴りたくなったでしょうね。この頃の頼之の気持ちを述べた有名な詩があります。

海南行 細川頼之

人生五十愧無功
花木春過夏已中
満室蒼蝿掃難去
起尋禅榻臥清風

人生五十 功無きを愧ず
花木 春過ぎて 夏已に中ばなり
満室の蒼蝿 掃えども去り難し
起って禅榻(ぜんとう)を尋ねて 清風に臥せん

五十年も生きてきて、なんの手柄も立てられなかったことが恥ずかしい。
木々に花開く春はもう過ぎ、すでに夏も半ばである。
部屋中に青ハエが飛び交っており、払っても払ってもしつこく飛び回る。
いっそ座禅に使う腰掛を持ってきて、この清らかな風に吹かれながら寝転がろうか。

なんかもうヤケクソになっている様子が、よく出てますね。「青ハエ」が自分の悪口を言う、周囲の人間たちのことです。

義満は細川頼之に同情的でしたが、こうも反対の声が増えると、どうにもなりませんでした。康暦元年(1379)閏4月、義満は室町第に細川頼之を召し出し、告げます。

「そのほうへの反発の声が、どうしても止まない。引退してはくれまいか」

「わかりました」

こうして細川頼之は一族引き連れて京都を後にし、淡路を経て讃岐に至ります。その背中には、さぞかし都落ちする男の悲哀が漂っていたことでしょう!

細川頼之が失脚すると、かわって斯波義将(しばよしゆき)が管領に就任しました。これを康暦の政変といいます。

足利氏満の野望

「なに、細川頼之が失脚?これは絶好の機会!」

細川頼之失脚の報を受けて鎌倉でほくそ笑んだのは、鎌倉公方・足利氏満です。

「いつまでも関東の主に甘んじる私ではない。この機会に京都に攻め上り、将軍の座を奪ってやる」

「なりません!ご謀反、それだけは!」

そこで氏満をいさめたのが、関東管領・上杉憲春(のりはる)です。しかし口で言っても聞き入られれないので、憲春は氏満をいさめる書状をしたため、鎌倉の自宅で自ら命を絶ちました。

「ああ!憲春…お前、そこまでして、俺をいさめてくれたのか…ッ!!」

足利氏満は上杉憲春の死に深く衝撃を受け、京都に攻め上ることを断念しました。事の次第を聞いた義満は、死んだ上杉憲春に代わり、上杉憲方を関東管領に据えました。

足利氏満は焦ります。

「義満は、私の謀反の企てを知ってしまったに違いない!どうすればいい?戦うか!いや、ここはすべて白状して、謝罪しよう」

将軍家と鎌倉公方家
将軍家と鎌倉公方家

すぐさま氏満は京都に謝罪の使者を送ります。よいよいと義満は氏満の罪はまったく問いませんでした。しかし、京都の将軍家と鎌倉の鎌倉公方とは根本的なところで相いれないものがありました。完全な和解は不可能でした。この後も両者は事あるごとに対立を深めていきます。

次回「花の御所」に続きます。

解説:左大臣光永

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