日露戦争(一)開戦まで

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こんにちは。左大臣光永です。

私が住んでるのは京都市北区で北野天満宮などがあるところですが、近くに地蔵堂、通称椿寺という寺があります。小さな寺で、ほとんど人の訪れはないですが、境内はのんびりと落ち着いた風情があって好きです。

赤穂浪士に資金援助した商人・天野屋利兵衛の墓や、与謝蕪村の師である早野巴人の墓もあり、歴史を感じさせます。こういうのが近所にあるのが、なくとなくたのもしいいです。

本日から7回にわたって「日露戦争」について語ります。

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日露戦争。1904年から05年にかけて韓国および満州の支配をめぐって日本とロシアで戦われた戦争。1899-00年の義和団事変後も満州から撤兵しないロシアに対して日本は日英同盟を結んで対抗し、ロシアとの交渉にのぞむが決裂。旅順港のロシア艦隊を先制攻撃して、宣戦布告。

日本軍は鴨緑江、遼陽、奉天などの戦いで勝利し、旅順を多大な犠牲をはらいながらも落とすも、国家を挙げての総力戦であり、兵力・弾薬を使い果たしました。

ロシアでも労働者のストライキが多発するなど厭戦ムードが高まっていました。日本海海戦で日本軍がバルチック艦隊を破ると、アメリカ大統領T・ルーズヴェルトが講和仲介に乗り出し、1905年10月、アメリカ東海岸のポーツマスで講和条約が結ばれました。

これにより日本は韓国を保護国化し、南満州に勢力をのばしました。

本日は第一回「開戦まで」です。

ロシア、満州から撤兵せず

日英同盟が締結されてから二ヶ月後の1902年4月8日、ロシアと清国の間に満州撤兵条約が結ばれました。

義和団事変後も満州に駐在していたロシア軍は、六ヶ月、六ヶ月、六ヶ月と三段階にわけて順次撤退するという内容でした。

この約束どおり、ロシアが満州から撤退していれば戦争にはならなかったでしょう。

しかしロシアは第一次撤兵を行っただけで、1903年4月8日になっても、第二次撤兵はせず、満州に居座り続けました。

ロシア国内の世論は日本を軽く見ており、軍事的に日本を撃破するにせよ、シベリア鉄道など経済・通商において圧倒するにせよ、日本ごとき敵ではないと考えていました。

日本では、三国干渉で遼東半島を奪われて以来、「臥薪嘗胆」のスローガンの下、ロシアへの敵意が高まっていました。

さらにロシアが1903年4月8日をすぎても満州から撤退しないので、ロシアへの敵意はいよいよ高まります。

伊藤博文、山県有朋両元老と桂首相、小村外相の四人は大阪で開催されている内国博覧会を視察する際に、京都の山県有朋の別邸、無鄰菴を訪れました。そこで3つのことが確認されました。

一、ロシアが満州から撤兵しない時は、厳重に抗議する
二、韓国における日本の優先権を主張し、一歩も譲らない
三、満州におけるロシアの優先権を認める

つまり、ロシアがどうしても撤兵しない場合、満州を譲ることはありうる。しかし韓国については一歩も譲らない。いわば満州を取らせて韓国を取る、という駆け引きでした。

6月23日、明治天皇の御前で会議が開かれ、無鄰菴での話し合いが確認されます。

伊藤博文も山県有朋も、桂首相も、この時点ではロシアと戦争までは考えていませんでした。しかし世論はいきり立ち、強硬論を唱えました。

民間でも、軍部でも、ロシアが第二次撤兵を行わないことについて、反発が高まっていました。

ことに「七博士(しちはかせ・しちはくし)」とよばれる東京帝大法学部を中心とした七人の大学教授は対ロシア強硬策を唱え、桂首相以下各大臣に建議書を届けました。

満州を取られれば朝鮮も取られる。朝鮮を取られれば日本の守りがなくなると、鼻息荒く、彼らは訴えました。

しかし世論がいくら強硬論に傾こうと、大国ロシアを相手に戦争をしかけるのは無理と思われました。ロシアの常備兵力200万、予備兵力500万とみられ、常備兵力だけでも日本の7-8倍です。

参謀次長田村怡与造(たむら いよぞう)少将が戦略立案に当たりましたが…田村は過労がたたって日露戦争前年の1903年10月1日に亡くなりました。、

かわって内務大臣の児玉源太郎がみずから二階級降格して参謀次長となります。わざわざ階級を下げてまで対ロシア戦略を立案する立場についたのは児玉の私なき愛国の精神からでした。

日露交渉の決裂

1903年7月28日、日本政府はロシアに駐在する栗野慎一郎公使に打電し、日露交渉が始まりました。東京において小村寿太郎外相とローゼン駐日公使が4回にわたって会談しました。

日本は満州をロシアに渡してもよいが、韓国は絶対に譲らないという姿勢をつらぬきました。これに対しロシアのいいぶんは、ロシアは満州を保有する、韓国についても日本の軍事行動を認めない、さらに北緯39度以北を中立地帯として、日露どちらも軍隊を入れないと条件をつけてきました。

ロシアが満州を足がかりに、韓国まで手をのばすつもりであることは明白でした。日本としては、とうてい呑める条件ではありませんでした。

1904年2月4日の御前会議で、交渉の打ち切りと開戦が決議されました。2月6日、ロシア政府に国交断絶の通牒がなされました。この日、すでに日本は軍事行動に着手しました。

金子堅太郎の渡米

2月4日夕刻、貴族院議員金子堅太郎は伊藤博文枢密院議長よりただちに来訪せよと電話で呼び出されます。行ってみると、御前会議で開戦が決まったという。驚く金子に伊藤博文が言うことに、ただちにアメリカへ行って、セオドア・ルーズヴェルト大統領に接触してほしい。

この戦いは第三国の講和調停にかかっている。その役をルーズヴェルトが引き受けてくれるよう、説得してくれと。金子はハーヴァード大学でルーズヴェルトの学友でした。

金子はこれを拒否します。そんな大役は果たせないと。しかし、伊藤は言います。

「ロシアが九州沿岸に攻めてくれば、自分も武器を持って戦う覚悟だ」

金子は伊藤の気迫に感じ入り、遣米使節として渡米することを引き受けました。

その後、金子は児玉源太郎参謀次長に会って、尋ねます。勝つ見込みはあるのかと。児玉が言うことに、

「素直に言って、勝算はない。まず五分と五分である。軍事的に事を解決できる見込みはない。第三国の調停による他はない。そのため緒戦で大勝利をおさめる必要がある。兵力を集中させ、ロシア軍第一兵団、第二兵団を各個撃破する」

ここに見えるのは、元老伊藤博文はじめ政府と、児玉源太郎らの軍部がしっかり意思を疎通しあい、協力しあっている姿です。

しかも権力の所在がなあなあにならず、伊藤博文はじめ元老が内閣も軍部も掌握していること。

さらに、政府も、軍部も、軍事力の限界を認め、終戦に向けての現実的なシナリオをはじめから描いていたこと。

これらが日露戦争を勝利に導いた要因といえるでしょう。

作戦の大筋

日本軍の基本プランは、「海軍による制海権の確保」と「陸軍による韓国占領」という二本立てでした。

具体的には、

一、ロシア軍極東艦隊の基地・旅順を攻略し、黄海の制海権をにぎる。

二、韓国を第一軍の三個師団で占領

三、満州南部にいるロシア第一兵団とハルビン付近で編成中の第二兵団が合流して20個師団の大軍団になる前に、第一兵団を撃破する

というものでした。

中にも旅順港の攻略はすべての作戦の起点となるものであり、宣戦布告を前に真っ先に行うべき最優先課題でした(当時の国際法では宣戦布告前の攻撃は違法ではなかった)。

次回「日露戦争(ニ)開戦」に続きます。

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歴史とは何か?(15分)
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清少納言と紫式部(15分)
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新選組 池田屋事件(19分)
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堀部安兵衛 高田馬場の決闘(6分)
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解説:左大臣光永

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