10分でわかる鎌倉時代(三)北条泰時・北条時頼

こんにちは。左大臣光永です。先日、静岡の三保の松原に行ってきました。天人の羽衣伝説で有名な海岸です。残念ながら曇っており富士山は見えなかったですが、予想以上に人が多く、車のナンバープレート見ると遠くからけっこう来てるのに驚きました。

さて、今週の金曜日(9/23)東京多摩永山公民館にて私左大臣光永の語る「鎌倉と北条氏の興亡」の学習講座を開催します。今回は鎌倉時代の流れをざっとおさらいして、会場の皆さまとご一緒に『吾妻鑑』などの本文を読み、頭より体で歴史を体感できる学習講座です。東京近郊の方は、ぜひご来場ください。
http://www.tccweb.jp/tccweb2_024.htm

そして!先日新発売しました「南北朝の動乱と室町幕府」ダウンロード版。好評発売中です。前作「鎌倉と北条氏の興亡」とのセット販売が9月30日までの期間限定特価でおトクになっております。お申込みはお早目にどうぞ。
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さて本日は「10分でわかる鎌倉時代(三)北条泰時・北条時頼」です。

▼音声が再生されます▼

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北条泰時

承久の乱の三年後の1224年、北条義時は息を引き取り、息子の泰時が三代執権に就任します。その翌年、幕府長老大江広元が、ついで北条政子が亡くなります。北条泰時は歴代の執権の中でも名執権としてたたえられています。「道理の人」と言われ、道理を重んじる優等生タイプでした。その人柄のおだやかでバランス感覚のいいことは、本来北条氏とは敵対的な位置にある『神皇正統記』すらほめたたえています。

御成敗式目

北条泰時の行ったことでもっとも有名なのは、何ですか?法律です。史上初の武士の法律。その名も、御成敗式目、もしくは元号から取って貞永式目です。

古来日本には律令と呼ばれる法律がありました。しかし律令は貴族の法律であり難しい言葉で書かれていました。武士の中には漢字も読めない無学な者もいました。まして法律なんか読めないわけです。もっと簡単な言葉だ書かなきゃダメだな。また、公地公民制を建前とする律令には土地の争いに関する規定が少なかったです。これも、武士にはあわない所でした。

こういう点をふまえて、北条泰時が1232年に出したのが御成敗式目です。または元号から貞永式目といいます。51か条から成りました。なぜ51か条でしょうか?51は17の三倍です。17といえば、聖徳太子の十七条憲法ですね。キリのいい数だったようです。

交通網の整備

また北条泰時は鎌倉の交通網を整備しました。和賀江島という港を材木座の海に築き、流通をよくしました。

和賀江島
和賀江島

和賀江島
和賀江島

また、鎌倉北東の朝夷奈口を整備し、武蔵の六浦と鎌倉を結びました。この時は泰時みずから馬に乗り、荷物を運んだと伝えられます。

朝夷奈切通
朝夷奈切通"

また鎌倉北西の小袋口を整備して山内荘と結びました。

「いざ鎌倉」という時には、諸国の武士がすぐに鎌倉に駆けつけられるように考えて。また流通の流動化を狙ったものでした。

北条泰時から北条時頼へ

1242年、北条泰時が死ぬと、孫の経時が4代執権に就任します。しかし、すぐに亡くなり、1246年、経時の弟・時頼が5代執権に就任しました。

北条氏 系図
北条氏 系図

宝治合戦

5代執権北条時頼の時代の最初の大事件が、1247年宝治合戦です。有力御家人三浦氏を滅ぼしました。三浦氏は大勢力を誇り、北条氏の潜在的な脅威でした。しかし、時頼はあくまで合戦になることは避けようとしていました。

時頼と三浦氏だけでは合戦にならなかったかもしれません。しかし、ここに時頼の母の実家である安達氏がからみます。


三浦氏と安達氏

安達氏は自分らが権力をのばすために三浦氏が邪魔でした。そこで安達景盛は北条時頼に、三浦泰村を討ちましょう。しきりに持ち掛けます。

「そうはいっても…しかし」

北条時頼は躊躇していました。また合戦を避けるために三浦泰村のもとに何度も使いを送り、自らも出向き話し合いを持ちました。しかし安達一族としては合戦になってくれないと困ります。

「ええい、攻め込め」

とうとう暴発して戦を始めてしまいました。北条時頼も、こうなっては仕方ないと安達に加担して三浦を攻めます。

こうして三浦氏は滅ぼされました。1247年宝治合戦です。これにより北条得宗家の権力はいよいよ強くなっていきました。

合議制の崩壊

また北条時頼は、北条得宗家の独裁を強めるための策を取ります。

それまで幕府の方針は「評定衆」と呼ばれる有力御家人からなる話し合いで決められていました。しかし北条時頼は「評定衆」を占める人事を刷新し、北条一門の割合を高くします。

そして「評定衆」の下に裁判を専門に行う「引付衆」を設置し、裁判の迅速化をはかりましたが、その構成員も北条一門が多く指名されました。

さらに、「寄合(よりあい)」「深秘の沙汰(しんぴのさた)」という密室会議を行い、重要なことは北条得宗家と得宗家に親しい安達氏の意向によって、決めるようになりました。

これによって評定衆は有名無実化し、合議制は崩れました。北条得宗家による専制が強くなっていきます。

大御所・時頼

1255年、赤発疹(あかもざ)という病気が流行し、時頼もかかってしまいます。死を覚悟した時頼は出家して、枕元に極楽寺長時を招き、遺言します。よいか。わしが死んだらそちが執権じゃ。しかしわかっておろうな。それは嫡男の時宗が成人するまでのこと。はっ。もちろんです。

死を覚悟した時頼はこうして執権職を分家の極楽寺長時に譲りますが、出家したらスカッと元気になったんですね。もう執権職は譲っていますが、現役の執権に口を出す形で、生涯政治にかかわり続けました。

北条時頼 廻国伝説

と、こういう話が、時頼についての正史、マジメな歴史書に書かれていることなんですが、それとは別に北条時頼というと伝説の多い人物です。出家した北条時頼が旅の僧に身をやつして諸国を旅してまわって、民の嘆きの声をくみ取って、助けてやったという話です。

何か思い出しませんか?水戸黄門です。水戸黄門の廻国伝説に通じる北条時頼廻国伝説。松島や、山形。秋田の象潟まで行った伝説が残っています。

故時頼の朝臣(あそん)は康元元年に頭をおろして後、しのびて諸国を修行しありきけり。それも国々のありさま、人の憂など詳しくあなぐり見聞かむの謀(はかりごと)にてありける。あやしのやどりに立ち寄りては、その家主が有様を問ひ聞き、ことわりある憂へなどの、うづもれたるを聞きひらきては、「われはあやしき身なれど、昔よろしき主(しゅう)をもち奉りし、未だ世にやおはすると、消息(しょうそこ)奉らん。もてまうでて聞き給へ」などいへば、「なでう(なぢょう)事なき修行
(すぎょうざ)の、何ばかりかは」と思ひながら、いひあはせて、その文を持ちて、あづまへ行きて、しかじかと教へしまゝにいひて見れば、入道殿の御消息なりけり。「あなかま、あなかま」とて永くうれへなきやうにはからひつ。仏神などのあらはれ給へるかとて、皆糠(ぬか)をつきて悦びけり。

『増鏡』第九、「草枕」

■あなぐる 探し求める。詮索する。 ■あなかま しいっ。静かに。

明日は「10分でわかる鎌倉時代(四)蒙古襲来と日蓮」お届けします。お楽しみに。

新発売です

先日、新発売しました。「聴いて・わかる。日本の歴史~南北朝の動乱と室町幕府」
http://sirdaizine.com/CD/His05.html

後醍醐天皇による建武の新政から足利尊氏による幕府創設、三代将軍足利義満の黄金時代を経て六代将軍足利義教までを語ります。今回はダウンロード版の先行発売となります。「鎌倉と北条氏の興亡」とお得なセット価格での販売は9月30日までの期間限定特価販売です。お申込みはお早目にどうぞ。

本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。

解説ページ
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解説:左大臣光永

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