一休宗純の生涯(一)出生

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こんにちは。左大臣光永です。

日曜日の朝、いかがお過ごしでしょうか?

私は一ヶ月かけて、フローリングの全面にマジックリンをかけました。油がうすーく膜をはっていたのを溶かして、ところどころ油が黒い塊になっていたのを削り取って、キレイにしました。マジックリンが、5本カラになりました。とても居心地がよくなりました。キレイなのはいいですね。

本日から7回にわたって、「一休宗純の生涯」をお届けします。

酬恩庵 一休像
酬恩庵 一休像

酬恩庵 一休像
酬恩庵 一休像

一休宗純。室町時代中期の大徳寺派の禅僧。北朝後小松天皇のご落胤といわれ、おさなくして京都の山城安国寺に、ついで建仁寺、さらに西山西金寺に入り、禅や漢詩文を学ぶ。

応永21年(1414)師の謙翁宗為が没すると、近江国堅田の禅興庵の華叟宗曇(かそうそうどん)のもとに参じ、華叟宗曇のもと、悟りを得て、一休の号を授かりました。

禅の道においては徹底した求道者でありながら、みずからを「風狂」といい、「狂雲」と称し、魚を喰らい、酒を飲み、女郎屋通いを繰り返したといいます。

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出生

応永元年(1394)正月一日、後の一休は、洛西嵯峨の民家にて産声を上げました。幼名千菊丸。父は北朝の後小松天皇。母はもと北朝方の公家の子孫であったといいます(母の名前は不明)。

これより2年前、足利義満の仲介により南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が返還され、50年来の南北朝の動乱に、いちおうのけりがついたところでした。

一休誕生の年、足利義満は息子の義持に将軍職を譲って太政大臣の地位につきました。3年後の応永4年(1397)より、有名な金閣をふくむ北山山荘の造営にとりかかります。

そういう時代に、千菊丸(=一休)は、北朝の後小松天皇の子として生まれました。

千菊丸(=一休)の母は南朝の高官の子孫であり、後小松天皇の寵愛を受けていましたが、北朝方の女官たちが天皇に告げ口しました。

「あの者は南朝につらなる者です。ふところに剣をしのばせて、帝のお命を狙ってますよ」と。

それで、母は宮廷を追われ、洛西(らくせい)嵯峨の民家で一休を出産したといいます(『一休和尚年譜』)。

天皇のご後胤で、母が宮中を追放されて…などというと、あまりにもドラマチックで作り話くさいですよね。しかし一休が後小松天皇のご後胤であることは、信憑性が高いとされます。

それは、一休と交流があったと思われる公家の少納言東坊条和長(ひがしぼうじょうかずなが)の日記(『和長卿記』)に、

秘伝に云く、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世にこれを知る者無し。

そう記してあること。

また一休自身が詠んだ歌に、

天の沢東の海を渡り来て後の小松の梢とぞなる

とあり、「天の沢」は中国天沢山のことで、一休の尊敬した禅僧・虚堂(きどう)和尚がすまいました。その和尚が、海を渡って来て、「後の小松の梢」=後小松天皇の子として生まれ変わった、それが自分であるというのです。

この一休自身の歌からも、一休が後小松天皇のご落胤であることは信憑性が高いとされます。

乳母 玉江

玉江(たまえ)という女性が一休(千菊丸)の乳母をつとめたといいます。玉江は肌の黒い女だったので、一休は「おくろ」と名付けて、6歳の時、

降る雪が白粉ならば手にためておくろの顔にぬりたくぞ思ふ

と詠んだといいます。

安国寺へ

千菊丸は6歳で母と別れ、京都の禅寺(山城)安国寺(四条大宮付近)に預けられました。住職の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)のもとで、周建(しゅうけん)と名付けられ修行しました。山城安国寺は現存しませんが、官営の臨済宗名門寺院でした。

後小松院皇子でありながら身分を隠さなければならない千菊丸を、母は世の争いに巻き込まれないように仏門に入れたのかもしれません。

「よいですか。あなたは高貴な生まれではあります。でもそれを忘れて、一生を仏さまに尽くすのです。わかりますか」
「はい、母上、でも母上と別れることだけが、悲しゅうございます」

という感じだったでしょうか。

一休とんち話

子供の頃、アニメ「一休さん」をご覧になった方も多いと思います。1975年から82年まで、全296話にわたって放映されました。安国寺時代の、とんち坊主としての一休にスポットをあてた作品でした。

もちろん創作も多いのですが、劇中で主人公一休さんと名コンビを演じる新右衛門さんは蜷川新右衛門親当(にながわしんえもん ちかまさ)という実在した武士がモデルです。

蜷川新右衛門親当は一休の連歌の弟子となり、詩歌に長じていました。ただし実際には一休よりずっと年下で、弟子になったのは一休の壮年期のことです。

とんち坊主としての一休説話のはじめは、一休没後170年、江戸時代万治年間に刊行された『一休噺』であり、アニメ『一休さん』も多くを『一休噺』に依っています。

蜂蜜を舐める噺

ある時、寺の和尚さんが壺にいっぱい入ったハチミツを舐めていた。

「あっ、美味しそう…ずるいです和尚さまばっかり」

寺の坊主たちはブウブウ言う。すると和尚は、

「これはあれだ、大人が舐めると美味しいが、子供が舐めると毒なんだ。死んでしまうぞ」

とすましている。

しかし、一休さんは和尚さんのウソを見抜いておりました。

和尚さんが留守のすきに、壺に入ったはちみつを全部舐めて、和尚さん愛用の壺を叩き割り、頭からはちみつをかぶってドロドロの姿になりました。

「何事じゃこれは!」

和尚さんが帰ってきて尋ねると、

「ううう…実は、大切な茶碗を割ってしまい、申訳が立たないので、死んでお詫びしようとしまして、毒をぜんぶ舐めましたが、死ねません。だから毒を頭からかぶりましたが、まだ死ねません。おうおう…どうしたものでしょう」

「こ…こいつ、やりおったな…」

(『一休関東噺』)

魚に引導を渡す噺

またこんな噺があります。

一休が12、3歳ころ、寺の和尚が塩鮭を汁にして寒さをしのいでいました。しかし一休には豆腐汁を与えたのみでした。

そこで一休、

「坊主は生臭物を食わぬといいます。なのに和尚さまは食うのですね。ならば私にも食わせて下さい」

「なにを申すか。お前らごとき小坊主が生臭物を食えば、たちまち罰が当たる。だが和尚はあらかじめ引導を渡してから食うから、罰が当たらぬのだ」

「その引導とは?」

「こう言うのだ。

なんぢ元来枯木のごとし。助けんとすれども生きてふたたび水中に遊ぶことあたわず。愚僧に服せられて仏果を得よ。喝。

…むしゃむしゃ、(ああウマイ…)」

(ぶう。和尚さまあんなこと言っちゃって。よし)

次の日の朝、一休は魚屋に飛んでいき、生きた鯉を買って、味噌汁を作って、鯉をまな板の上に載せ、庖丁でまさに首を切り落とさんとしているところに、和尚が飛んて来て、

「一休、お前なにをしとるか!修行中の小僧には、塩鮭すら食してはばちが当たると、昨日言うたではないか。それを、生きた魚を食らうとは何事か」

「和尚さま、大丈夫です。私もこの魚に引導を渡しました」

「なに!」

「こう言って引導を渡したのです。

なんぢ元来なま木のごとし。助けんとすれば逃げんとす。生きて水中に遊ばんよりは、しかじ愚僧の糞となれ。喝」

ざくっと鯉の首を包丁でたたっ切って、味噌汁に入れて、腹いっぱい食べてしまったという話です。

和尚は一休の頓智に関心して、

「三年になる鼠を、今年生まれた猫が取るとは、このことか」

そう言ったと(『一休噺』)。

人を殺しまくった挙げ句に死んだ男に対して一休は、

つくりおく罪の須弥ほど高ければゑんまの帳につけどころなし

(やらかした罪が須弥山のように高いので、えんま帳につけようがない。だから罪はチャラになるだろう)

と詠んで弔ったという話もあります(『続一休噺』)

もっともこれらとんち話が書かれたのは一休没後170年もたった江戸時代万治年間であり、史実性はあやしいです。とはいえ全部が作り話とも言い切れず、いくらかは、事実もふくまれていると思います。

漢詩文を学ぶ

一休(=周建)は応永12年(1405)12歳で、壬生の宝幢寺(ほうどうじ)で維摩経の講義につらなり、その理解の深いことから周囲を驚かせました。

この頃、安国寺から天龍寺にうつって剃髪し、さらに建仁寺に入りました。

13歳で建仁寺の募喆龍攀(ぼてつりゅうはん)和尚の下で漢詩文を学び、15歳で作った詩が巷で評判になります。

春衣宿花
吟行客袖幾時情
開落百花天地清
枕上香風寐乎寤
一場春夢不分明

春衣(しゅんえ)にして花に宿る
吟行の客袖(きゃくしゅう) 幾時の情ぞ
開落 百花 天地清し
枕上の香風 寐(び)乎(か)寤(ごか)
一場の春夢 分明(ふんみょう)ならず

春の衣で花の下に宿る
花見客は時を忘れてうっとりしている。
咲いている花も落ちた花も、あらゆる花が、天地を清々しく覆っている。
家に帰って寝ていても、香ばしい風がただよってくる。これは夢だろうか現だろうか。
はかない春の夢なのか、わからなくなる。

「いい詩だわねえ。うっとりしちゃう」
「15歳で作ったって。すごいなあ」

そんなふうに、評判になりました。

次回「一休宗純(ニ)骸骨を包む」に続きます。

youtubeで配信中

大原問答
https://youtu.be/-5fVjsIVES0

文治2年(1186年)秋、天台宗の僧顕真が、浄土宗宗祖・法然はじめ各宗派の碩学を洛北大原の勝林院にまねき、300人の聴衆の前で法論が行われました。これを大原問答、または大原談義といいます(8分)。

明治の廃仏毀釈
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc

慶応4年(1868)明治政府が出した「神仏分離令」を発端として、神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました(24分)。

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解説:左大臣光永

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