大伴旅人と隼人の反乱

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「死んどけやああぁぁぁぁぁぁああ!!」
「うぎゃぁあああああああぁぁぁああああ!!」

バタッ…

720年(養老4年)、大隅国の国司・陽候史麻呂(やこのふひとまろ)が隼人族に殺害されます。この知らせはすぐに大宰府から朝廷に届けられます。

「なんですって!九州で!!」

朝廷は律令制を整え地方支配を強化していきましたが、まだ完全に全国を掌握できたわけではなく、従わない勢力がありました。その一つが南九州の隼人族でした。

朝廷にとっては頭の痛い問題でした。20年前の700年(文武天皇4年)にも朝廷から派遣した調査隊が南九州で原住民の襲撃を受けるという事件が起こっていました。

元正天皇はおっしゃいます。

「とにかく…捨て置くわけにはいきません。
誰を行かせないと。誰がよいであろうか?」
「中納言大伴旅人殿はいかがでしょう」
「おお旅人か。それはよい」

すぐさま元正天皇は大伴旅人を召し出し、将軍のしるしである刀を授けます。

「中納言大伴旅人、そのほうを
征隼人持節大将軍に任ずる」

「ははーっ」

そして笠御室(かさのみむろ)と巨勢真人(こせのまひと)両名を副将軍に任じ、九州へ向かわせます。

大伴氏とは?

大伴旅人はこの年55歳。代々朝廷で軍事部門を担当してきた大伴氏の末裔です。遠く祖先をさかのぼれば天孫降臨の際、神々の先導をつとめた天押日命(アメノオシヒノミコト)に行きつくといいます。

大伴氏

蘇我氏の全盛期は大伴氏はふるいませんでしたが、645年大化の改新で蘇我氏が滅ぶと、大伴長徳(おおとものながとこ)が右大臣に任じられ、672年壬申の乱では長徳の弟吹負(ふけい)や子の安麻呂(やすまろ)が功績を立てました。

その、壬申の乱で功績を立てた安麻呂の子が、旅人です。後に『万葉集』の編者として知られることになる長男・家持はこの時わずかに2歳。

(わが子家持のためにも、負けられぬ)

そんなことを考えていたかもしれませんね。

隼人族 攻略

九州についた大伴旅人は九州各地から兵士を徴収し、九州の東西から大隅半島へ向けて南下していきます。

720年隼人の反乱
【720年隼人の反乱】

旅人は隼人族の立てこもる城を次々と落としていきます。

「残る城は二つ。…ふははは。順調順調!」

七つの城のうち五つまでを落とし終えた時、朝廷から早馬の使者が届きます。

「大変です。不比等さまご薨去」
「なにっ藤原不比等さまが!!」

「すぐに都にお戻りください」
「…仕方が無いな」

当時元正天皇のもとで実質、朝廷を動かしていた藤原不比等が没したと知らせが届き、旅人は都に呼び戻されます。後の攻略を副官以下に任せ、旅人は都に引き上げました。

その後1年半にわたる戦いの末、朝廷軍は隼人を屈服させ、都に引き返してきました。隼人の被害は斬首者・捕虜あわせて1400名にのぼったと記録されています。

その後の大伴旅人

その後、大伴旅人は九州での功績を買われたのか神亀年間(724年 - 729年)大宰帥(大宰府の長官)に任じられ九州に下ります。

「以前はあわただしい戦の陣だったが、
今回はゆっくりできる。九州のうまい酒でも味わいつくすとしよう」

「まったく貴方はお酒の話ばっかり…」

絵に描かれた大伴旅人はたいがい赤ら顔をしています。ここからわかるように、大伴旅人は大のお酒好きでした。またたいへんな愛妻家でもありました。

しかし、大宰府着任早々、最愛の妻大伴郎女(おおとものいらつめ)は亡くなってしまいます。大の愛妻家であった旅人は、亡き妻をしのぶ歌をいくつも残してます。

我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る

(私の妻が植えた梅の木を見るごとに心はむせて涙が流れる)

世間(よのなか)は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

(世の中は空しいものと知るにつけ、いよいよますます悲しいのだ)

「60歳過ぎて…この最果ての地に独り残されて…。
ああ…俺はこれから何を支えに生きていったらいいんだ…」

しかし、大宰府には新たな出会いがありました。

社会派歌人として知られる山上憶良。額田王以来最大の女流歌人といわれる腹違いの妹大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)ら…。

彼らは連日連夜集まっては文学談義に花を咲かせ、後世「筑紫歌壇」とよばれる、華やかな賑わいを作っていくことになります。

つづき 長屋王の変

解説:左大臣光永

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