徳川吉宗(ニ)紀州藩主就任

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思いがけない相続

宝永2年(1705)、頼方(後の吉宗)を取り巻く事態が一変します。5月、長兄の綱教(つなのり)が41歳で病で死にます。綱教には跡取りがいなかったので、三男の頼職(よりもと)が家督を継ぎます(次男は早世している)。

徳川吉宗 系図

ついで8月に父光貞が80歳で没します。さらに翌9月、藩主を継いだばかりの頼職が26歳で死にました。今や、22歳の四男の頼方のみが紀州徳川家の後継者として浮かび上がってきました。

「とにかく上さまの許可を得なくては」

すぐさま頼方は参勤交代により和歌山を後にして上京。将軍徳川綱吉より相続許可を得ます。

宝永2年(1705)12月1日、頼方は将軍綱吉から正宗を銘の入った刀を授け、「綱吉」の一字を取って「吉宗」と改名しました。また同時に吉宗は従三位・左近衛権中将とされます。

こうして紀伊徳川家の庶子にすぎなかった頼方は、思いもかけず紀伊徳川家当主…御三家の一人になったのです。22歳でした。

翌宝永3年(1706)23歳で結婚します。相手は伏見宮貞致(さだゆき)親王の娘・真宮理子(さなのみや まさこ)16歳を京都から迎えます。

翌宝永4年(1707)権中納言に昇進。

そんな中、宝永6年(1709)1月10日、将軍徳川綱吉が亡くなり、5月1日、甲府徳川家の家宣が6代将軍となります。家宣は将軍就任早々、悪名高い生類憐れみの令を廃止し、綱吉時代の人事を刷新します。

ことに綱吉時代幅をきかせた側用人・柳沢吉保は観念して自ら辞表を提出しました。家宣はかわって新井白石・間部詮房らを登用しました。

流産

宝永6年(1709)4月19日、吉宗は江戸城にて新将軍家宣に御目通リし、紀州帰国を言い渡されます。

(五年ぶりの紀州か…心躍る。だが…妻を江戸に残していくのは、いかにも不安だ)

吉宗の不安は的中します。紀州帰国中に懐妊中の妻理子が流産し、亡くなったのです。ガックリと肩を落とす吉宗。

流産した子は江戸池上本門寺に葬られました。妻理子(まさこ)は池上本門寺で火葬された後、和歌山の報恩寺に葬られました。

以後、吉宗は生涯正妻を持ちませんでした。

紀州藩主として

吉宗が藩主に就任した頃の紀州藩の財政はガタガタでした。

それは初代藩主・徳川頼宣が和歌山城の増改築を繰り返したこと、度重なる火災で江戸の紀州藩邸が燃えたり、国元の紀州が旱魃に見舞われたこと、結婚や葬儀、将軍綱吉が紀州藩邸を訪問したことなどで出費がかさんでいたためです。幕府から10万両の借金をしていましたが、それでも賄えませんでした。

「困ったものだ」

紀州藩主となった吉宗にとっての一番の課題が、財政建て直しでした。そこで吉宗が取った手段は…、

倹約です。

「とにかく、出費を削るのだ」

吉宗は自ら衣類、身の回りの品々を質素にして手本を示しました。宝永6年(1710)吉宗が紀州藩主としてはじめて紀州入りした時、その行列は見るからに質素なものでした。迎えた家臣たちのほうが豪華な格好をしていて、ばつが悪かったとまで伝えられます。

また正徳5年(1715)3月に家康の百回忌のため日光に参詣した時の吉宗の行列も、質素なものでした(『南紀徳川史』『鳩巣小説』)。

吉宗は自分が質素にするだけでなく家臣にも質素を強制しました。

「町廻横目(まちまわりよこめ)」と呼ばれる監視役を町に放って、家臣の暮らしを見張りました。特に衣類には厳しかったです。

ある藩士が子供に絹の着物を着せているという報告がありました。そこで吉宗がその藩士に諭して言うことに、

「お前は武士の子を育てる道を知らん。子供の頃から絹の着物なぞ着ていれば、虚弱に育つ。子供には木綿の着物を着せておけばよいのだ」

こんなふうに言われるのでした。藩主自身も質素にしているので、藩士たちは従うほかありませんでした。

吉宗は藩士たちの武芸の訓練についても監視しました。

長い平和が続き、藩士たちは武芸をおろそかにしがちでした。しかもあの繁栄と享楽の元禄時代の後です。まだ何となく、贅沢で浮かれた空気が世に満ちていました。

そこで吉宗は芸目付(げいめつけ)という役人をもうけて、家臣がちゃんと武芸に励んでいるか、監視しました。

大規模なリストラも行いました。藩邸に務める下役人80人を解雇し、奥女中も大幅に減らしました。

これらは支出を減らすための政策です。

一方、収入を増やすための政策も行いました。

まずは二十分の一差上金です。

藩士の収入のうち、二十分の一を藩に上納せよということです。つまり臨時の増税です。とりあえずの急場しのぎですが、傾いた藩の財政を立て直そうとしました。

新田開発や用水工事も行いました。ことに、紀の川北岸に小田井用水を開き、紀の川流域の新田開発をさせたことは大きなことでした。

吉宗は庶民の意見も政治に取り入れました。

和歌山城の大手門外に訴訟箱をもうけ、庶民の意見をききました。後の「目安箱」の原型となるものです。

また庶民の中から親孝行な子供と夫につくした妻を選び、表彰しました。これなんかは現在の感覚から言うと余計なお世話って感じですが、当時はどう受け止められたんでしょうか。

これらの政策により紀州藩の財政は立て直りました。吉宗が将軍に就任する享保元年(1716)には藩の繰越金は、金14万両、米11万6000石にまでなっていました。二十分の一差上金も藩士に返済しました。

治安が良くなり、藩士たちの規律も引き締まり、火付け盗賊も減りました。

「紀州にはたいした名君かいる。その名を吉宗という」

江戸にも吉宗の評判はきこえました。

解説:左大臣光永

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