生類憐みの令

五代将軍徳川綱吉の出した生類憐みの令。

史上まれに見る悪法として日本史に記憶されていますが…最近はいやいや、そんな悪いものではなかった、綱吉は慈悲の心があって生類憐みの令を作ったんだという声も上がっています。

実際、どうだったんでしょうか?

中野 犬屋敷跡の碑
中野 犬屋敷跡の碑

生類憐れみの令の始まり

生類憐れみの令といっても、そういう名の法律があったわけではなく、順次発布された60あまりの動物保護令の総称として、生類憐れみの令と言っています。

「生類憐みの令」がいつから始まったのか?諸説あってよくわかりませんが、貞享4年(1687)正月に出された法令がはじめと見る説が有力です(『南紀徳川史』)。

もともとは捨て子や捨て牛馬を禁じることから始まり、犬猫に芸をして見世物にしてはならないといったことも加わり、次第にエスカレートしていきました。

ついに幕府の台所で鳥獣や貝類を料理してはならないと言い出し、島流しになる者や切腹させられる者も出ました。

綱吉はなぜこんな生類憐みなどということを思いついたのか?

昔から言われている俗説があります。

綱吉は長男徳松を5歳で失い、以後跡取りが生まれていませんでした。気に病んだ母桂昌院が、帰依していた護国寺の僧に相談しました。

「なぜ跡取りが生まれないのか?」
「前世に殺生なさったからです」
「ではどうすればよいのか?」
「将軍さまは戌年の生まれです。犬を大切になさい」

こうして母桂昌院がわけのわからない坊主にたぶらかされた結果、綱吉は素直に母の言うことをきき、過剰な犬の保護が行われたと言われていますが…真偽のほどはあやしい話です。ただし綱吉は犬の形の湯たんぽを愛用するなど、犬をひどく愛好したことは事実です。

犬公方 綱吉

キャンキャン、キャンキャン

ある武士が、
毎晩泣き喚く犬にたまりかねていました。

もう許せん。死ぬええ!!

ズバ、キャヒーーン

「これで静かになった」

バチン(鞘に刀をおさめる音)

「見たぞ」「えっ」

「お犬さまを殺したな!」
「お犬さまを殺したな!」「御用!」

こうして武士は八丈島に流され、その主君は改易となりました。

誰も犬には逆らえなくなります。

「へへえ、お犬さま、お犬さま」

はいつくばる市民。道の真ん中をいばって野犬が歩いていきます。お犬さまにちょっとでも手を出すと処罰です。誰も恐れて手を出せなくなりました。人間のほうが犬みたいです。

江戸には野良犬があふれました。

飢えた野良犬が捨て子を食らう事件も起こっていました。そこで綱吉は、元禄9年(1695)から翌年にかけて大久保・中野・四谷に犬小屋を作り、江戸じゅうの野良犬を収容しました。

特に中野の犬小屋は16万坪もあり、現在のJR中野駅北口・南口一帯に広がっていました。10万匹の犬が収容され大切に取り扱われました。

中野 犬屋敷跡
中野 犬屋敷跡

現中野区役所 中野犬屋敷のあったあたり
現中野区役所 中野犬屋敷のあったあたり

犬一匹の一日の餌代は米二合と銀二分で一年間の費用は金9万8000余両にのぼりました。もちろん江戸市民から巻き上げた税金で賄いました。

まったく…犬と人間とどっちが大切なんだ!ぶつぶつ…恨みの声は天下に満ちました。綱吉は「犬公方」とよばれました。

エスカレートする生類憐みの令

綱吉の狂気は犬だけにとどまりませんでした。馬牛鳥魚貝など、保護すべき動物はしだいにふえていきます。大迷惑です。

ある者は仕事中に蚊が飛んできて頬についたので、これを手で打ち殺しました。同僚がおい、頬に血がついてるぞというので、おっ、気づかなかったと紙でふき取る。

そして手を洗って普通に仕事を続けました。それを同僚に通報されて、御用となり、八丈島に島流しとなりました。

ある者は五つになる子供が病気になった。病気には燕がきくというので、家の前に来た燕を吹矢で吹き落として、煎じて子供に飲ませた。それが幕府に通報されて小塚原で死刑となりました。

一説に、水戸光圀は綱吉に抗議するため犬の皮20枚を送ったといいますが、効果はありませんでした。綱吉は、この悪法に異常に執着します。

綱吉はけして愚かな君主ではありませんでした。父家光は、自分は政務に忙しく学問している暇がなかったから、この子には学問を授けてやりたいと言いました。母桂昌院もわが子に学問させることに熱心でした。

その甲斐あってか、綱吉は非常な学問好きに育ちました。特に儒教に傾倒した。上野忍ヶ丘にあった林羅山の私塾と孔子廟跡を神田に移し、湯島聖堂を築きました。

湯島聖堂 入徳門
湯島聖堂 入徳門

湯島聖堂 大成殿
湯島聖堂 大成殿

湯島聖堂では綱吉自身が教壇に立ち、『論語』『孝経』『大学』などの講義を行いました。

そんな聡明な人物が、ここまで愚かな悪法に執着したのは興味深いことです。

「私が死んでも生類憐れみの令だけは残してくれ」綱吉は側用人の柳沢吉保にそう遺言しました。

生類憐みの令の廃止

しかし宝永6年(1709年)正月10日、綱吉が死ぬと、中野の犬小屋の廃止・生類憐みの令で処罰された人の救済が布告されました。以後、次に将軍となった家宣によって生類憐れみの令は順次、廃止されます。

「今までの恨みだ」ドカーッ
キャン、キャン

「ざまあみやがれ。バカ犬ども!」

犬を蹴ッ飛ばす者もあったそうです。

見渡せば 犬も病馬もなかりけり 御徒士小人(おかちこびと)の ひまの夕暮れ

心なき 身にも哀れは知られけり 犬医者どもの 秋の夕暮れ

などと、庶民はあざ笑いました。

中野犬屋敷跡には八代吉宗の時代に桃が植えられ、市民の憩いの場となりました。JR中野駅南口一帯に「桃園」の地名が残っています。

また北口の中野区役所前には「中野犬屋敷跡碑」が立ち、綱吉時代をしのぶことができます。

中野 犬屋敷跡の碑
中野 犬屋敷跡の碑

ちなみにこのへん、飲み屋がズラーーッと軒を連ねていて、実に楽しいです♪

中野
中野

中野
中野

テレビと御用学者は生類憐れみの令が大好き!

最近、テレビなどでしきりに綱吉と生類憐れみの令を持ち上げています。かつては暴君だ、バカ殿だと言われていた綱吉だが、実は違うんだと。

儒教に基づく立派な考えで、戦国の殺伐とした空気を終わらせた。まことに綱吉こそ名君であったという風潮を作ろうとしています。

また御用学者たちがこぞって綱吉を持ち上げています。綱吉こそ名君だ。綱吉のおかげ動物愛護のみならず人の優しさが大切にされたのだ。

もし綱吉がいなかったら、日本人はいまだに犬を食ってるんだぞ。どうだひどいことだろう。綱吉のおかげで、日本人は犬を食わず可愛がるようになったんだと。

少し歴史を勉強した人の間では「綱吉は実は名君だった」と言ってみるのが、一種、トレンドのようになっています。

私はこうしたことを危険な傾向と見ます。

作られた「韓流ブーム」を例に引くまでもなく、テレビが何が流行らせようとしている時は警戒が必要です。裏に必ずよからぬ魂胆があるので。

そもそも生類憐れみの令がそんなにいいものだったら江戸時代を通して続くはずです。綱吉死後すぐに廃止された事をもっても、生類憐れみの令がどれほどの悪法であり、バカ法であり、当時の人々がこの現実を知らない空想的理想主義者・徳川綱吉によって振り回されたかを示しています。

生類憐れみの令は類まれなき悪法であり、バカ法である。この事実は、どうあっても動かせません。テレビと御用学者がどれほど言葉を尽くして綱吉を持ち上げようとも。いや、そういう胡散臭い連中が持ち上げるからこそ。逆に。生類憐れみの令と徳川綱吉のバカさ加減がいよいよ、ますます、輝いて迫ってきます。

解説:左大臣光永