伊能忠敬(三)西日本測量

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こんにちは。左大臣光永です。曇り空が続きますね。京都では9月中、2日くらいしか晴れなかったです。朝は晴れてても正午過ぎには真っ白な雲に包まれてしまうんですよね…。さわやかな青空が見たいです。

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本日は「伊能忠敬の生涯」の第三回、「西日本測量」です。

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第四次測量

第四次測量は享和3年(1803)2月25日から。深川黒江町の自宅を門弟を引き連れて出発し、東海道を南下し、大垣・敦賀を経て北陸へ。能登半島を廻って越後へ。出雲崎から佐渡へ。帰りは三国峠を越え中山道を経て江戸に戻りました。

途中、越後国糸魚川でトラブルがありました。

享和3年(1803)8月8日、一行が越後国糸魚川で宿泊していると、糸魚川の問屋・八右衛門が挨拶に来て、言いました。

「姫川(ひめかわ)は川幅が百間(約180メートル)もあり、危険です。河口近くは避けて、もっと上流の本街道を進んでください」

「しかし…今までいろいろな河口を通りましたが、大丈夫でしたよ」

「とにかくダメです」

取り付く島もありませんでした。翌日、言われた通り本街道を進むと、姫川の川幅は十間(18メートル)ほどしかありませんでした。

「問題ないではないか!」

伊能忠敬は弟子たちに命じて河口付近を船で測定させました。宿に帰ってから八右衛門らを呼び、

「公儀を軽く見るとはけしからん」

叱りつけると、町役人と八右衛門はへへえと平服し、これでいったん終わりになりました。しかし八右衛門らは今回のことを根に持っていたのか、江戸の糸魚川藩庁に通報します。

「伊能忠敬らは公儀を傘に着て威張りまくり、賄賂を要求します」

江戸にいる高橋至時は、伊能忠敬にすぐに戻ってこいと書状を送ります。忠敬は長岡近くの六日市村で高橋至時からの書状を受け取ると、すぐに江戸に戻り、高橋至時を通じて勘定奉行に弁明しました。

結局、問題にはならずその後の測量に差し障るようなことにはなりませんでしたが、本人は潔白でも、どこで恨みを買うかわからない。ややこしいことです。

江戸に戻った伊能忠敬に悲しい知らせが待っていました。師の高橋至時が亡くなったのです。もともと病弱な上に、『ラランデ暦書』の翻訳に根をつめすぎたのでした。41歳でした。

高橋至時は伊能忠敬生涯一の理解者であり協力者でした。子午線一度の距離の測定結果が正しかったといって師弟共に喜びあったのはつい先日のことでした。遺体は上野の源空寺に葬られます。後に、伊能忠敬自身も遺言により源空寺の師の墓の隣に葬られることとなります。

東日本沿海全図

伊能忠敬は第四回までの測量結果を「東日本沿海全図」としてまとめ、幕府に提出しました。大図(たいず)69枚、中図(ちゅうず)3枚、小図(しょうず)1枚からなりました。同じ東日本の地図を、小図では一枚に、大図では69枚に描いてあるのです。

大図は江戸城の大広間いっぱいに広げられ、継ぎ合わされました。

「なんと見事な…!」
「これが日の本の姿か!」

幕府の役人たちは、ただ目を見張るばかりでした。将軍徳川家斉もみずから上覧しました。

地図の評価は上々でした。それで伊能忠敬は幕臣に取り立てられます。役職は「十人扶持・小普請(こぶしん)組・天文方勤務」下っ端の役人ですが、「元百姓浪人」からすると、たいへんな出世でした。

第五次測量

第五次からは西日本を測量しました。今回からは幕府直轄事業なので測量隊に幕府の天文方下役が加わりました。人員も予算も増えました。

文化2年(1805)2月25日、深川出発。東海道を南下し、紀伊半島を一周。大坂から京都を経て近江へ。琵琶湖湖岸を測量しながら一周。それから大坂に戻り、山陽道と瀬戸内の島々を測定しながら進み、岡山で年を越しました。

翌文化3年、下関から山陰に入り、松江から海を渡り隠岐へ。4月30日、伊能忠敬は持病の瘧(マラリア熱)を発症。断続的に熱が出て激しい悪寒を伴いました。そのため伊能忠敬は隠岐まで渡れませんでした。隠岐の測量は一行にまかせて、忠敬は松江城下で病気療養します。

5ヶ月目。なんとか回復した忠敬は、10月1日、小浜城下で測量隊と合流。若狭へ進み、敦賀から琵琶湖東を南下し、草津から東海道に入り、文化3年(1806)11月15日、深川に戻りました。今回は1年9ヶ月という、大規模な測量となりました。しかも幕府の役人がいるので常に気を遣い、堅苦しいことでした。

途中、忠敬が抜けた時期は弟子たちの規律が緩みました。宿で出された料理を食べずに作り直させたり、その作り直しの料理にも文句をつけたり、買い物の代金をちゃんと払わなかったり、長州萩で、島々に渡る船がなかなか出ないのに腹を立て、煙草箱を投げ出したり…こういった狼藉が、忠敬の耳に届きました。

「やむを得ぬ」

忠敬は問題行動を起こした二人の弟子…平山郡蔵と小坂寛平を、江戸に戻ってから破門しました。が、二人は忠敬の片腕とも言える存在であり、忠敬にとって心苦しいことでした。

第六次測量

第六次測量は第五回終了から1年2ヶ月を経て、文化5年(1808)1月25日、深川を出発しました。今回は四国・大和路の測量です。東海道を上り、摂津から淡路島へ。淡路島を測量した後、鳴門海峡を渡り四国へ。

四国は沿岸部を時計回りに測量しながら進み、途中、忽那(くつな)諸島・小豆島など四国に付属する島にも渡って測量しました。第五回の測量とあわせて、瀬戸内海のほぼすべての島々を測量し終えました。

四国測量を終えるとふたたび淡路を経て大坂へ。大坂から奈良盆地に出て、奈良・飛鳥にかけて測量しました。当麻寺や法隆寺など有名な寺の門前まで測量し、特に法隆寺は熱心に参拝しました。その後、吉野山を測量し、金峯山寺の門前まで測量しました。

大和路を後に伊勢神宮まで進み、年を越し、文化6年(1809)元旦は伊勢神宮の外宮・内宮に参拝しました。ふたたび東海道をくだって文化6年(1809)1月18日、深川に戻りました。

第七次測量

第七次の測量は3年間にわたる大規模なものとなりました。文化6(1809)8月27日、深川出発。高崎、諏訪を経て中山道を進み、京都から山陽道へ。岡山・広島と測量しながら進み、関門海峡を越えて小倉で年を越します。

翌文化7年(1810)、小倉から大分を経て鹿児島へ。鹿児島から種子島・屋久島に渡ろうとしましたが、波が荒く無理でした。そこで予定を変えて、天草を測量しながら九州の西部を北へ進みます。人吉→熊本→阿蘇を経てふたたび大分へ。ここでまた年を越して翌文化8年(1811)5月8日、江戸に着きました。

間宮林蔵

江戸に戻った伊能忠敬のもとに、間宮林蔵が訪ねてきました。間宮林蔵とは第一次測量の時、蝦夷地の函館で会っていました。その時、間宮林蔵は千島に測量に行くと言っていたのでした。

「伊能先生、樺太は島ですよ」

「えっ、半島ではなく」

この頃樺太は大陸につながった半島と思われていました。間宮林蔵は実際に測量して、樺太は半島ではなく島だと、つきとめたのでした。それで現在も樺太とシベリアの間の海峡を間宮海峡と呼びます。

「大変なことをつきとめられましたね。それにしてもあなたの若さが羨ましい。私などあと何年頑張れるか…」

この年、伊能忠敬は67歳。間宮林蔵32歳でした。

「いえ、いくら若くても技術がなければどうにもなりません。実は先生、今日は折り入ってお願いがあって参ったのです。私に測量術を教えていただきたいのです」

「測量術を!おお、それはいい。まだ私が測量していない蝦夷地の西側なども測量してもらえれば、こんなにありがたいことはありません」

こうして、伊能忠敬は地図作りの合間を見ては間宮林蔵に測量術を教えるようになりました。間宮林蔵も一生懸命に勉強しました。

やがて間宮林蔵はふたたび蝦夷地へと旅立っていきました。その時、伊能忠敬は「間宮林蔵に送るの序」という文章を作って林蔵の前途を祝福しました。

第八次測量

第八次測量は忠敬の生涯で最大の測量行となりました。

文化8年(1811)11月25日、深川黒江町を出発。東海道を上がり箱根から甲府へ、富士川に出て、京都→大坂まで進み、大坂で越年。翌文化9年(1812)山陽道を進み、九州へ。小倉→久留米→熊本→鹿児島まで進み、第七回の測量で果たせなかった屋久島に、ついで種子島にわたって測量しました。

そのまま九州で年を越し、翌文化10年(1813)はこれまで漏らしていた西九州を測量し相浦(あいのうら。佐世保市西北)で年を越しました。

今も相浦からやや南の展望台から、九十九島が美しく見渡せます。忠敬の歌が残っています。

七十に ちかき春にぞ あいの浦
九十九島を いきのまつ原

七十歳に近い春に私は相浦から九十九島を見渡しながら、壱岐まで渡っていくのだ。69歳の感慨を、相浦・九十九島・壱岐という地名をまじえて詠んでいます。

その後、一行は壱岐・対馬に渡りました。対馬からは遠く朝鮮半島の山々を基準に、測量しました。最後の仕上げは五島列島です。最北端の宇久島(うくじま)から南へ進み、最南端の福江島(ふくえじま)まで測量しました。

帰路は中国山地を縦横に測量し、年越して美濃・信濃・飛騨の山地も縦横に測量し、四年越しに江戸深川に戻ってきました。

次回「日本輿地全図の完成」。お楽しみに。

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「耳で聴く」歴史解説音声
「江戸幕府の始まり」「崩れゆく江戸幕府」
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「江戸幕府の始まり」

二代徳川秀忠から七代徳川家継の時代まで。

江戸の町づくり・春日局・徳川家光と鎖国の完成・島原の乱・由比正雪の乱・明暦の大火・徳川綱吉と生類憐れみの令・新井白石と宣教師シドッチ。そして元禄文化の担い手たち、松尾芭蕉や井原西鶴、近松門左衛門や初代市川團十郎など。

「崩れゆく江戸幕府」

八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。

江戸幕府前半48話・後半32話に分けて解説した音声つきdvd-romです。在庫終了しだい販売終了します。お申込みはお早めに。
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■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永

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