三代家光(十)鎖国の完成

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三代将軍徳川家光の時代。

寛永16年(1639)7月5日に鎖国は完成しました。もっとも鎖国令という名前の条文があるわけではなく、正式にはこの時出されたのは「寛永十六年禁令」です。

主な内容は、

・日本人が海外へ渡航すれば死罪。
・すでに海外渡航している者が日本に戻ってきたら死罪。
・伴天連の取締。伴天連をかくまった者も、妻子も死罪。
・貿易の制限。

などでした。

条文は寛永16年に一気に出されたものではなく、寛永10年(1633)以来、五度に分けて、追加・修正を加えながら完成しました。この間、寛永14年(1637)島原の乱が起こり、キリシタンに対する危機感が一気に高まったことも、鎖国完成の一因となりました。

鎖国完成に至る道のりは平坦なものではありませんでした。

家康の海外政策

外国に対して強硬路線だった秀吉と打って変わって、家康は平和外交を進めました。

まずはフィリピンとの間に友好的な国書のやり取りが行われ、ついで安南・シャム・カンボジアともさかんに国書のやり取りが行われました。

ただし友好的関係となったのはあくまで貿易においでてあって、家康は宣教師の日本への派遣はキッパリと断りました。外交と宣教は別であると、ハッキリ諸外国に表明しました。家康は早くからキリスト教に警戒を抱いていました。

にもかかわらず、宣教師たちは日本に潜り込み、各地に潜伏してはキリスト教を広めていきました。

リーフデ号来航

慶長5年(1600)3月、九州北部豊後の臼杵湾北岸に、見慣れない船が漂着しました。船の名はリーフデ号。オランダのロッテルダムを出港し、マゼラン海峡を越え、太平洋を越え、はるばる日本にたどりついたのでした。

長い船旅に船は痛み、ボロボロでした。24人の乗組員が乗っていました。中にも高級船員であるオランダ人ヤン・ヨーステン。航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス。

この二名によってはらかずも日本とオランダ・イギリスとの国交が開かれることとなります。

「なに、外国の船が?」

家康は大阪でリーフデ号漂着の知らせを受けると、すぐに航海長ウィリアム・アダムスを招きます。何をしにきたか、ヨーロッパの情勢はどうか。家康が尋ねると、ウィリアム・アダムスは通訳をはさんで家康に満足のいく答えをいちいち返しました。

「うむむ…すばらしい」

この日から家康はウィリアム・アダムスにすっかり心酔し、以後、外交顧問として重く用いるようになります。同時にオランダ・イギリスとの国交も開かれました。家康はたびたび夜を徹してアダムスから世界情勢をきき、幾何学や数学の教えを請いました。

オランダよりリーフデ号来る。

その知らせに仰天したのが、ポルトガルの商人と、イエズス会の宣教師たちでした。

商人たちは貿易の独占権を侵されるのを恐れました。そしてイエズス会は、プロテスタント勢力がカトリックの狩場に土足で上がり込んできたことに激怒しました。

「オランダ人は泥棒です!世界じゅうを荒らしまくっています!
陛下(家康)がオランダ人との貿易を許可するなら、誰も怖がって日本に来れなくなりますよ!
非道なオランダ人どもを、すぐに処刑してください!」

イエズス会宣教師たちはワァワァ言って家康に訴えました。

オランダ側はこれに反論します。

「ポルトガル人は宣教師を侵略の道具に使っています!
彼らはローマ教の教えで人を骨抜きにして、
内乱を起こさせるのです。それが手口なのです」

このようにカトリックとプロテスタントの間でしばらく悪口合戦が行われました。

生糸の輸入

ポルトガル商人は中国のマカオに拠点を置き、中国産の生糸を日本にもたらして大きな利益を上げていました。しかし幕府は慶長9年(1604)、糸割符制度をはじめて生糸の輸入を制限します。

糸割符制度とは、幕府が許可を与えた商人グループが生糸をポルトガル商人から一括して買い取り、その後、国内各地に分配・販売する仕組みです。そしてこの幕府が許可を与えた商人グループのことを糸割符仲間といいます。

当然、自由競争は制限され、ポルトガル商人にとっての生糸輸出のうま味はなくなっていきました。

朱印船貿易

家康は貿易を行う船に将軍の印である朱の印を押した書状を与え、正式な貿易船の印としました。これによって海賊やもぐりの無許可業者との区別をつけました。この朱印の押された書状のことを朱印状、または御朱印状といい、船のことを朱印船、または御朱印船といいました。

日本人町

後に幕府が鎖国を断行するまで、朱印船はベトナム・カンボジア・シャム・ルソンなど東南アジア各地に赴いて盛んに貿易を行いました。

特に日本人の渡航の多かったベトナム中部・交趾(コウチ)などには日本人町が築かれました。日本人町ではキリスト教の信仰も認められ、キリシタンにとっても新天地となりました。

後に幕府が鎖国を行うと外国に住んでいた日本人は日本に帰国することまで禁じられてしまいました。そのため彼らはそのまま現地に骨を埋めることとなります。中にも山田長政などはシャムのアユタヤ王室から重く用いられたことで有名ですね。

朝鮮通信使

秀吉が文禄・慶長の役で朝鮮に出兵して以来、日朝の関係は断絶していましたが、家康は対馬の宗氏を通して貿易を再会することに成功しました。家康は朝鮮との国交も回復しました。将軍の代替わりの時には朝鮮からは祝賀のための使者が訪れることとなりました。

朝鮮通信使です。

琉球政策

琉球は薩摩の島津氏が慶長14年(1609)に征伐し支配下に置いていましたが、なお名目上は琉球は明の朝貢国という扱いにしておきました。つまり、外国扱いでした。そのほうが幕府にとっても都合がよかったためです。

慶賀使・謝恩使とよばれる使者が、琉球から江戸に登りました。慶賀使は将軍就任を祝う使者。謝恩使は琉球国王即位を報告する使者です。

はるか異国から徳川を崇めるために使者が来る。なんと徳川の力は強いのだろうとアピールするためでした。そのため琉球の使者はとりわけ異国風ないでたちをすることが強制されました。

家康のキリスト教禁止令

このように家康は、一部制限は加えながらも、基本的には海外との友好関係を築くことに務めました。

ただしそれは、あくまでも貿易においてでした。宣教師を派遣することについてはキッパリと断り、諸外国に宣言しています。

「日本は神国である。神を崇めることは祖先以来の伝統である」と。

それでも宣教師たちは非合法に日本に乗り込んで来ては各地に潜伏し、時には商人に化けて、キリスト教を広め続けました。取り締まっても、取り締まっても、キリがありませんでした。

当初は家康も貿易の利益を考えてある程度の宣教は黙認していましたが、そうも言っていられなくなってきました。

慶長18年(1613)12月23日、家康は全国にキリスト教禁止令を発布します。その文面は側近である南禅寺の僧・金地院崇伝に命じて一晩で書き上げさせました。いわく。

・キリスト教は侵略の道具である。宣教師は侵略の尖兵として現地に送られてくるのである。
・キリスト教は神社・仏閣を嫌悪し、人倫の道に反し、法を守らない。
・政府が処刑したキリスト教徒を聖人としてあがめ礼拝する。
・まことにキリスト教は仏敵・神敵である。
・これを禁止せずは、必ず後世の患いとなろうと。

かつて中南米で、フィリピンで、宣教師は侵略の尖兵として現地に赴きました。宣教師たちはキリストを信じねば地獄行きであるといって原住民を脅してキリスト教の信仰を強制し、現地の神殿を破壊しました。

しかる後に軍隊が乗り込んできて、キリスト教に改宗した現地人と相呼応して異教徒を虐殺し国を奪うという流れでした。

こうしたカトリック教会の蛮行については2000年にローマ法王ヨハネ・パウロ二世が公式に謝罪しています。

秀吉も家康も、こうしたキリスト教の危険性については早くから察知し警戒していました。

また家康は若い頃、三河の一向一揆にさんざん手を焼いた記憶があります。宗教というものが、いかに人の心に深く食い込み、人を熱狂させるか、その恐ろしさを嫌というほど味わっています。

全国でキリシタンへの厳しい弾圧が行われます。

京都では、信者を捕らえて俵でちまき状に巻いて、四条・五条の河原にさらしました。空腹に耐えかねて信仰を棄てるものは「転んだ」といってお咎め無しとなりましたが、転ばないものは火をつけて焼き殺しました。

大阪でも、堺でも大規模なキリシタン捕縛が行われました。信仰を捨てない者は、奥州津軽に流されました。

加賀ではかつてキリシタン大名として知られた高山右近が捕らえられ、マニラに追放されました。キリシタンの国内追放はともかく、国外追放はこれが初めての例です。

各地で教会堂が破壊され、宣教師たちは本国退去を命じられました。

貿易の制限

キリスト教禁止に伴い、貿易もしだいに制限していきました。家康は諸大名に一定規模以上の大きな船を所有することを禁じました。これにより大名による朱印船貿易はすっかり途絶えました。

元和二年(1616)家康が亡くなり、秀忠が跡を継ぎます。秀忠は家康以上にキリスト教を厳しく取り締まりました。

日本人が宣教師やその協力者と少しでも関係を持つことは禁じられ、宿を貸すことも禁じられます。

破れば火あぶり・財産没収となりました。本人だけでなく、罪は妻子・両隣五軒にまで及ぶという苛烈なものでした。

また、秀忠はヨーロッパ商人を主要都市から追い出し、貿易は長崎・平戸の二箇所だけに絞りました。宣教師が商人に化けてキリスト教の宣教を行っていたためです。

平戸のイギリス商館長、リチャード・コックスはついにネを上げました。ただでさえ商売がオランダに押され気味だった所に幕府からさまざまに制限を加えられ、もうどうにもならなくなります。元和9年(1623)イギリスは平戸から撤退しました。

さらに幕府による締め付けはキツくなっていきます。

寛永10年(1633)、貿易船は朱印状に加えて老中奉書という別の許可証を持つ必要があるとして、これを持った奉書船しか貿易はできないこととしました。打撃を受けた貿易業者は多かったことでしょう。

鎖国の完成

そして、寛永16年(1639)7月5日、三代家光の時代に鎖国は完成に至ります。

鎖国令の主な内容は、

・日本人が海外へ渡航すれば死罪。
・すでに海外渡航している者が日本に戻ってきたら死罪。
・唐船・オランダ船が長崎に来て貿易することは許可する。
・伴天連の取締。伴天連をかくまった者も、妻子も死罪。
・貿易の制限。

などでした。

条文は寛永16年に一気に出されたものではなく、寛永10年(1633)以来、五度に分けて、追加・修正を加えながら完成しました。この間、寛永14年(1637)島原の乱が起こり、キリシタンに対する危機感が一気に高まったことも、鎖国完成の一因となりました。

ちなみに「鎖国」という言葉は享和元年(1801)ケンペルの『日本誌』の最終章の題名が長すぎたために蘭学者の志筑忠雄(しづき ただお)が「鎖国論」と訳したことが始まりです。

つまり一個人が作り出した造語にすぎないのですが、幕末に「開国」と対になる言葉にして使われて有名になりました。つまり家光の当時は「鎖国」という言葉はありませんでした。

また「鎖国」といっても松前藩を通じてアイヌに。薩摩藩を通じて琉球に。対馬を通じて朝鮮に開けており、オランダ・中国とも貿易は続いたので、近年では「鎖国」という概念自体に疑問が持たれています。

踏絵

島原の乱の後、キリシタンに対する圧力はいよいよ強まっていきました。

「キリシタンを一人残らず、根絶やしにするのだ!」

それが徳川家光の断固たる覚悟でした。キリシタンへの情け容赦ない弾圧が行われます。キリストの像の描かれた踏み絵を踏ませて、キリシタンかどうか見たりもしました。

本来、聖書は偶像崇拝を禁じているので踏み絵なんか踏んで蹴ってツバかけて叩き割っても全く問題ありません。

たぶんキリストが生きてたらそんなんさっさと踏めと言うと思いますが…末端の信者にはそのような考えはありませんでした。踏絵を踏むことを憚って死刑になる者が多く出ました。

ポルトガル人への処置

またキリシタン弾圧と同時に、外国人の締め出しが進められました。

中でもポルトガル人は宣教師の手引をしており、取り締まっても取り締まっても宣教師をもぐりこませることをやめないので、特に警戒されていました。

家光は寛永11年から13年までかけて、長崎の港内に人口の島を築造させていました。この島は当初、築島(つきしま)と呼ばれ、後に出島と呼ばれるようになります。

家光は長崎の市内にすまっていたポルトガル人をすべて、出島に移動させます。

こうしてポルトガル人と日本人との接触を絶ちました。島原の乱の後は出島からも追い出して、ポルトガル人に国外退去を命じました。

「我々は貿易の再開を望む。話せばわかるはずだ」

そんなこと言って、マカオからポルトガル船が来航してきました。

ここで舐められてはならない。

家光は断固たる姿勢を内外に示す必要がありました。

そこで長崎に使者を派遣し、ポルトガル船の乗員74名全員を呼び出し、

「諸君は前年出された渡航禁止例に違反した。
よって全員死罪である」

「そんな!」
「ムチャクチャな!」

ワアワア言う乗組員たち。

翌日、処刑は実行されました。乗組員たちは長崎西坂(にしざか)で首をはねられ、ポルトガル船は大村藩の手で焼き沈めさせました。

オランダ人への処置

ついで平戸のオランダ商館が長崎の出島に移されます。ポルトガル人についでオランダ人が狭い出島に押し込められました。以後、江戸時代を通じて出島は数少ない世界の窓となります。オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が幕府に提出する「オランダ風説書」によってのみ、日本はヨーロッパの情勢を知ることができました。

唐人屋敷

中国は明から清に変わってからも日本への来航を続けていましたが、幕府はじょじょに制限を加えていきます。ついに元禄元年(1688)中国人を長崎の一区画…唐人屋敷に押し込め、そこから出ることを禁じました。

解説:左大臣光永

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