有馬皇子の変

中大兄 飛鳥に帰る

難波京では孝徳天皇と中大兄皇子との対立が
日に日に深まっていました。

孝徳天皇は中大兄が政治の実権を握っていることに不満をもらし、
中大兄も孝徳天皇をうっとうしく思っていたようです。

中大兄皇子と孝徳天皇
【中大兄皇子と孝徳天皇】

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653年、中大兄は突然難波から飛鳥へ
戻ると言い出します。

孝徳天皇は、

「何を言い出すのか中大兄。
つい先日難波に都を移したばかりであるのに」

「ならば、帝はご勝手になさればよろしい。
私は帰ります」

中大兄は先代の天皇であり母である皇極や、
孝徳天皇の妃であり実の妹である間人皇女(はしひとのひめみこ)、
それに大半の臣下を引き連れて、飛鳥へ戻ってしまいました。

一説に、中大兄皇子は妹の間人皇女と近親相姦の関係にあり、その関係は間人皇女が孝徳天皇の后となった後も続いており、ついに中大兄皇子は孝徳天皇から間人皇女を奪って飛鳥へ戻ったのだ、ということも言われています。

難波から飛鳥へ
【難波から飛鳥へ】

孝徳天皇は難波に残されました。

「くっ。中大兄め。我に対するあてつけじゃなッ」

地団太を踏みますが、実際に力を持っているのは中大兄。
自分は飾りにすぎないのだと身に染みて思い知られます。

「父上、しっかりなさってください。
おのれ中大兄。この恨みは忘れぬ」

孝徳天皇をいたわってくれるのは、
この年13歳になる有馬皇子だけでした。

孝徳天皇と有馬皇子
【孝徳天皇と有馬皇子】

翌654年、孝徳天皇は失意のうちに崩御します。

皇極 重祚して斉明天皇となる

孝徳天皇が崩御すると
中大兄の母である皇極が重祚(ふたたび位につく)して
斉明天皇として飛鳥板葺宮で即位されます。

皇極天皇重祚して斉明天皇となる
【皇極天皇重祚して斉明天皇となる】

もう中大兄皇子も30歳です。中大兄が即位すればいいところですが、
なぜか即位しませんでした。

ところでこの頃、『日本書紀』に奇妙な記述が見えます。夏五月、空に竜に乗ったものがあらわれた。その姿は唐人に似ており、青い油塗りの笠をかぶり、葛城山から生駒山の方角に隠れた。午後になって、住吉の松嶺(まつのみね)の上から西に向かって飛んで行っていなくなったと。

なぜこんな記事が、ここに挿入されているのか。それ自体が不気味です。一説に、竜に乗った者の正体は乙巳の変で殺された蘇我入鹿だともいわれます。

狂心の溝

斉明天皇は即位すると政治のことは息子の中大兄皇子に任せ、
好き勝手な事業に取り組まれます。

まず後飛鳥岡本宮とよばれる大規模な
宮殿を建てます。

ついで3万人を駆り出して飛鳥の地に水路を掘らせます。
人々は「狂心の溝」といって非難しました。

また7万人を駆り出して岡本宮の東の山に石垣を作りました。

どうしてこんな工事をしたのか、現在でも
よくわかっていません。

有馬皇子の物狂い

一方、有馬皇子は父孝徳天皇が崩御して以来、
様子がおかしくなってきました。

アハハ、ウフフ…うつろな目で笑っていました。

有馬皇子は先帝孝徳天皇の息子であり、中大兄の従弟です。有力な次期天皇候補です。これを中大兄ににらまれたら、古人大兄皇子や蘇我倉山田石川麻呂のように粛清されかねない。そのため、有馬皇子は中大兄の目をあざむくため、物狂いのふりをしていたようです。

有馬皇子は紀伊の牟婁の湯で湯治をした所、調子がよくなったので、都に戻ってから斉明天皇に奏上します。いい湯でした。すっかり調子がよくなりましたよ。まあ、それはいいわねえ。斉明天皇も温泉好きだったようで、たいそうご興味を抱かれました。

蘇我赤兄 謀反をたきつける

658年、斉明天皇は中大兄皇子らとともに
紀伊の牟婁の湯に行幸します。

先日、斉明天皇の孫・健皇子が幼くしてなくなっていました。斉明天皇はその悲しみに暮れておられたのでした。そうだ。有馬皇子が温泉がいいと言っていたわ。中大兄、行きますよ。えっなんです母上。温泉です。牟婁の湯へ向かうのですと、今回の行幸になったのでした。

その留守をあずかる蘇我赤兄が、
有馬皇子の舘を訪ねました。

「天皇の政に三つの過失があります。
大きな倉庫を建てて民の財産を集めたこと、
運河をほって公の食糧を浪費したこと、
舟で石を運び、丘を築いたこと」

「……」

「皇子さま、立ち上がってくだされ」

「……」

「皇子さま!」

「わかった。ようやく兵を挙げる時が来たようだな」

その後、有馬皇子は蘇我赤兄の舘に行き
二人してクーデター計画について話し合います。

「吾は正面口から責める。そのほうらは裏口から回ってくれるか」
「心得ました皇子さま」
「百人は集まるだろうか。これならうまくいくはずだ」

ガタッ

その時、一人でに脇息の脚が折れました。

「不吉な…」
「皇子さま、縁起でもないです。今夜は解散としますか」 「ううむ。後日あらためて計画は練るとしよう」

こうして有馬皇子と蘇我赤兄は別れます。

有馬皇子の最期

その夜、有馬皇子が舘に戻って寝ていると、

わらわらわらわら…

バーンと扉が開いて、

「皇子に謀反の疑いあり!連行する」

「くッ…!! 謀られたか…」

有馬皇子は中大兄皇子の前に引っ立てられます。
中大兄皇子が訊ねます。

「どうして謀反などしようと思った」

「知らぬ!我は何も知らぬ!天と赤兄が知っておろう」

有馬皇子は紀伊へ護送され、藤白の坂で絞首刑にされました。19歳でした。

道すがら有馬皇子が詠んだ歌が『万葉集』に残っています。

家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
(家にいる時は茶碗に盛るご飯を、旅の途上なので椎の葉に盛るのだ)

磐代の浜松が枝を引き結び、まさきくあらばまた帰り見む
(磐代の海岸に立っている松の枝を引き結んで、
もし幸運にも戻ってこれたなら、またこれを見よう)

松の枝を結ぶ、というのは旅の安全を願って、出発する際に松の枝を結び、無事に帰れたら松の枝をほどくという習慣がありました。

後年、持統・文武天皇の時代になって、磐代の松を訪れた歌人長忌寸意吉麻呂(ながいみさおきまろ)は、有馬皇子をしのんで歌を詠んでいます。

磐代の岸の松か枝(え)結びけむ人は帰りてまたみけむかも

(磐代の岸の松の枝を結んだという有馬皇子の魂は立ち返って、またこの松を見たのかなあ)

≫次の章「阿倍比羅夫の蝦夷征伐」

解説:左大臣光永

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