前九年合戦(三)清原氏の参戦
清原武則の参戦
「ううっ…何もかも阿部貞任のやりたい放題か」
しかし、頼義はすでに次の手を打っていました。出羽国の俘囚の長である清原光頼と弟の武則に加勢を要請していたのでした。どうか、朝敵阿部貞任を滅ぼすために手を貸していただきたい。
「わかりました。我ら清原一族。
陸奥守殿にご加勢いたしましょう」
武則は一族および一万余人を率いて陸奥の国境を越え、加勢に参じました。
「おお…武則殿、よく来てくださった!」
源頼義は三千余人の軍兵を率いて清原武則を迎え、栗原郡営岡(くりはらのこおり・たむろおか)で武則と会います。
頼義・清原連合軍 阿部氏を攻める
すぐに松山(宮城源玉造郡葛岡より栗原郡栗駒町を経て、岩手県西磐井郡に抜ける道)の道を進み、磐井の郡、中山の大風沢(おおかざさわ)で一泊します。翌日、同じ郡の萩の馬場に至ります。
阿部宗任(貞任の弟)の叔父である僧良照の小松の楯から五町あまりのところでした。
日がよくないのと、もう日が暮れたので、攻撃は明日ということになりました。ところが武則の息子たちが偵察をしようと楯(砦)に近づいて行ったところ、配下の歩兵たちが勝手に楯の外の宿舎に火をかけてしまいます。
「ばかっ、何をしておるか。作戦は明日…
ぐわっ」
煙が立ち込め火があがり、あっ、火が出た。火だ。敵か。敵なのかと、城内は大混乱になりました。
源頼義が清原武則に言います。
「合戦は明日と考えていましたが、こうなった以上、やるしかありません」
「わかりました」
さて深江是則・大伴員秀(かずひで)という者が、もののふ二十人ばかり率いて鎧を具して剣をもって城の壁を削り、矛を杖のようについて、ガッ、ガッ、ガッと巌にのぼり、
「それっ」
楯の下を切り払って、城の内に乱れ入り、キン、カン、キーンとあちらでもこちらでも剣をあわせて打ち合いとなります。
「あああ、どうしよう。とうとう戦になってしまった」
城の内の人々はまっ青になっていました。
「おのれこしゃくな」
安倍宗任は八百余騎を率いて城の外に出て戦いますが、頼義は多くの精鋭を増援として遣わして戦ったので、阿部宗任は
「退けっ、退けーーーーっ」
「それっ。敵は崩れた。楯に火を放てーーーっ」
ぼっ、ぼっ、ごわーーーー
安倍宗任の立てこもっていた楯は、燃え上がります。
足止めを食らう頼義軍
「まずは勝利」
しかし、兵士たちは疲れ果てていました。頼義は兵士たちを休息させるため、追撃はしませんでした。折から雨が降って来て18日間も降り続け、足止めされます。
「まいったな。すでに18日。こうまで動けないと
食糧も底をついてくる」
そこで頼義は兵士たちを近所に遣わし食糧を探させますが、阿部貞任らが「敵は食糧がなくて焦っている。今こそ攻撃の好機」
ワアァーーー、ワァーーー
飢えた頼義軍に阿部の軍勢が容赦なく襲い掛かります。しかし頼義および長男の義家、次男の義綱、清原武則らが奮戦し、なんとか阿部の軍勢を退却させます。
-->源頼義 安倍の貞任を攻める
「それっ。一気に敵を打ち亡ぼせーーーっ」
ワアーー、ワァーーー
味方の軍勢とともに貞任軍を追撃し、貞任の高梨の宿と石坂の楯の所で追いつきます。
「くっ…これでは防ぎきれん」
焦る貞任。
ついに石坂の楯も放棄し、貞任は衣川柵に逃げ込みます。
衣川柵
すぐに頼義軍は衣川の柵まで押し寄せますが、衣川は険峻な天然の要塞であり、その上樹木が生い茂っていて、苦戦が予想されました。
そこで源頼義は工作員を城内に潜伏させ、内側から火をかけます。
「ぬおっ!!火が!!」
安倍貞任は味方の陣から火が上がったのを見て驚き、戦わずして退却していきます。
安倍貞任 歌を返すの逸話
この、衣川の柵退却戦のさなか、逸話が伝わっています。
合戦の最中、いよいよ敵の大将阿部貞任を追い詰めた源義家。
「そこか阿部貞任。もう逃がさん。覚悟ーーー」
ぴたりと狙いを定めたまま、源義家は詠みました。
「衣のたてはほころびにけり」
それを受けて阿部貞任は、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
「おお…」
源義家が感心しているすきに、阿部貞任は馬にまたがり、
バカラッ、バカラッ、バカラッ、バカラッ、
「義家さま、何をしておられますか。
貞任を追いましょう」
「あいや、待てい。…この大混戦のさなか、歌を読み上げるとは
敵ながら風流な男。ここは見逃してやろう」
まあ戦の最中にありえない話ではありますが、
今に伝わる有名な逸話です。
鳥海楯
安倍貞任は逃げに逃げて、鳥海楯(とりのうみのたて)まで退却します。
頼義と武則らが鳥海楯を攻撃しに押し寄せると、攻撃軍がまだ到着していない内に阿部宗任(むねとう)・藤原経清らは城を棄てて逃げて厨河楯(くりやがわのたて)にうつりました。
「ええい。しつこい。こうも楯から楯へ移動されては、きりがない!」
厨河(くりやがわ)・嫗戸(うばと)の楯
さて、清原武則は厨河(くりやがわ)・嫗戸(うばと)の楯に至って包囲し、陣を張って一晩中看視し、翌朝卯の刻より朝から夜までぶっ通しで戦います。
ゴオオオォォォーーー
折からの暴風雨に乗じて火をかけ、城の中をことごとく焼き尽くます。
城の内の男女数千人、声もさまざまに泣き叫び、敵の軍勢はあるいは身を淵に投げ、あるいは自害しました。
「それっ。一気に攻めこめーーーーっ」
頼義軍は一気に河をわたり、包囲して戦うと、た、助けてくれえと敵はがむしゃらに剣をふるい、めくらめっぽうに脱出しようとします。
「道を開いて敵を脱出させろ。窮鼠猫を噛むという。必死の敵を相手にしてはならぬ」
そこでわらわらわらーーと兵が散会し道を開くと、あっあそこから逃げられるぞーと敵は助かったの思いで逃げていく、その後ろから、「皆殺しにしろ」ずばぁ、ズバァ、ぎゃああ、ひいいい、逃げていく敵を情け容赦なく斬り殺しました。
囚われた藤原経清
この戦いで藤原経清を捕虜にしました。
最初阿部頼時の陣営にいたものが、頼義の陣営に加わり、後に頼義の陣営を逃げ出しふたたび安倍頼時についた男でした。
頼義は藤原経清を召し出し、言います。
「お前は先祖以来私の従者であった。それなのに私を裏切り、皇室の権威をふみにじった。何をやったかわかっているのかあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ」
頼義はさびた切れ味の悪い刀で、ゆっくり時間をかけて苦痛を与えながら経清の首を切り落としました。
安倍貞任 玉砕
大将阿部貞任は、これが最後と覚悟を固め、
「我こそは安倍頼時が次男阿部貞任」
じゃきいいいんと剣を引き抜いて斬りこんでいきますが、
「やあ」
兵士たちが突き出した槍に、
「ぐぎゃああああ」
突き貫かれて、がっくりと息絶えました。
戦いの後
安倍貞任の巨体は大きな楯の上に載せて、六人がかりで運び、頼義の前に置かれました。身の丈六尺余、腰めぐり七尺四寸、容貌はいかめしくて肌は色白。年四十四と伝えられます。
「よくやった!」
頼義は喜んで、阿部貞任の首をごりごりと斬り落としました。
安倍貞任らの首 京都へ送られる
翌年の康平六年(1063年)二月、安倍貞任、藤原経清、阿部重任らの首三つを朝廷に奉りました。
「あれが阿部貞任か…」
「おっとろしい顔しとるで」
「でも、ちょっと哀れやねえ」
「なに言うとるんや。国司さまに逆らった反逆者やで。
そんなん自業自得や」
「そやけど…」
人々は、いろいろなことを言い合いました。
国司藤原登任(ふじわらのなりとう)がはじめに阿部氏と衝突してから12年目に、ようやく「前九年合戦」は終わりました。
続き「後三条天皇の改革」です。