徳川慶喜(十七)晩年

本日は徳川慶喜の十七回目最終回、「晩年」です。

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晩年

前回まで

明治元年(1868)慶喜は静岡に居を定め、戊辰戦争・西南戦争と時代が動く中、趣味生活に没頭した。

明治天皇の徳川宗家行幸

明治政府の地盤はいよいよ固まり、旧徳川は脅威ではなくなった

明治二十年(1887)10月31日、
明治天皇、千駄ヶ谷の徳川宗家へ行幸
寛永三年(1626)後水尾天皇が二条城に行幸して以来261年ぶり

天皇家と徳川家の和解という意味あい

慶喜は静岡にいて加われなかった

西草深への転居

明治二十一年(1888)3月6日、
紺屋町から西草深(にしくさぶか)へ転居
東海道線の敷設で徳川邸が線路内に含まれていたことによる

子供たちが就学・結婚で次々と慶喜のもとを離れていく
当主厚、学習院を卒業後、松平春嶽の娘里子と結婚。千駄ヶ谷に新居をかまえる
徳川宗家(家達)と勝海舟の内意

身辺さびしく

母登美宮、長女鏡子(満20歳)、妻美加子の死

松平春嶽、松平容保、相次いで逝く

従一位

明治二十一年(1888)6月、従一位授与
公爵への前段階

趣味生活の変化

体力を使わないものに

狩猟・釣りは減り、弓道が体力維持の手段に

ビリヤード

写真
静岡在住の写真家・徳田孝吉(こうきち。元幕臣)の指導
人物・風景・植物

レコード
コーヒー

静岡から東京へ

東京移転の話
年齢と健康面から
末の子二人が学習院に編入
寂寥感?

明治三十年(1897)11月13日
久能山東照宮、浅間神社に参拝後、県知事に挨拶

11月16日、
人々に見送られ静岡出発、東京へ

巣鴨に居住

有栖川宮威仁親王との交流

有栖川宮家十代・威仁(たけひと)親王との交流
慶喜より21歳年下

慶喜の母登美宮は有栖川家六代・織仁(おりひと)親王の娘
慶喜家と有栖川家のつながりは強い

有栖川宮家とは?

寛永2年(1625年)、後陽成天皇の第七皇子の好仁親王が高松宮として創設。承応3年11月28日(1655年1月5日)、良仁親王が後西天皇として践祚。このころ宮号を有栖川宮に改めた。「有栖川宮」の由来は不明。

大正2年(1913年)に威仁親王が薨去したため、旧皇室典範の規定に基づき断絶

30年ぶりの汚名返上

威仁親王の働きもあり…

明治三十一年(1898)3月2日、
明治天皇・昭憲皇后と慶喜、対面
【逆賊の汚名が30年ぶりに雪がれる】

以後、日記を再開し、宮中の行事にも参加するように

明治三十二年(1899)
参内
芝増上寺・寛永寺に参拝(先祖の霊廟に名誉回復を報告)

同年1月19日、勝海舟没→心理的かせがはずれ、自由に

11月3日
天皇より天長節に招かれる
観兵式に参加

悠々自適

自転車、散歩、
写真、
神田錦町の錦輝館(きんきかん)で活動写真をみる

終焉の地 小石川小日向へ

明治三十四年(1901)十二月二十四日、
巣鴨から小石川区小日向(現文京区春日二丁目)へ
東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅と本郷三丁目駅の間

豊島線(現JR山手線)巣鴨駅開業にともなう喧騒を嫌って?
終焉の地となる

明治三十五年(1902)6月3日、公爵授与
渋沢栄一らの嘆願?

天皇・皇后の行幸にともなうセレモニーに参加するように

過去と向き合う

明治20-30年代
史料編纂や評価にかかわる

渋沢栄一の編纂事業への協力

歴史家からのヒアリングに応え歴史の記録つくる
『徳川慶喜公伝』の編纂
慶喜自身がチェック

【過去と向き合う】

背景
幕末は遠い過去となりつつあり、薩長の藩閥政治にもかげりが見えていた

幕末史の再評価がすすんだ。大政奉還の評価上がる

慶喜の最期

大正二年(1913)11月22日早朝逝去
風邪からの肺炎
享年77

渋沢栄一が葬儀委員長
葬儀は神式で行われた

増上寺でも寛永寺でもなく
上野の谷中霊園に埋葬
(葬儀を神式にしたため寺が反発?)

16代家達は寛永寺に墓

大往生
明治期のマイペース

前半生と後半生のギャップ
福沢諭吉「一身にして二生を送る」

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解説:左大臣光永