徳川慶喜(十五)江戸から水戸へ
本日は徳川慶喜の十五回目、「江戸から水戸へ」です。
↓↓↓音声が再生されます↓↓
慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍の惨敗に終わりました。慶喜はわずかな人数で大坂城を脱出。江戸に逃げ帰りました。
江戸城入りした慶喜は幕臣たちを集めて、今後の方針について意見を求めます。
■【無料ダウンロード】日本の歴史 解説音声91本・18時間
https://history.kaisetsuvoice.com/DL/
前回まで
慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍は惨敗。大坂まで撤退。
1月6日夜、慶喜は数名とともに大坂城を脱出。船に乗って江戸へ。
慶応四年(1868)1月12日
江戸城入
江戸帰府後
慶喜の大坂退去により薩摩側のねらい通りに
・戦争は旧幕府側からの発砲で始まった
・慶喜はみずから将兵を率いて上洛しようとした
↓
だから慶喜は朝敵である!
江戸城入した慶喜、
食事もとらずに幕臣から意見聴取
大手門を開放し誰となく建白・議論
幕臣「軍艦を大坂に派遣しましょう」「箱根で迎え撃ちましょう」
板倉・容保・定敬「そうだそうだ!」
慶喜「ならぬ!!」
1月17日
若年寄兼外国総奉行・堀直虎、江戸城中で自刃
慶喜に主戦論を退けられて
同日
議定松平春嶽・山内容堂に朝敵処分の解除を依頼
1月19日
ロッシュ「再起なさい」慶喜「しない」
1月20日
静寛院宮に朝敵解除の依頼
静寛院宮、天璋院は慶喜嫌い
静寛院宮「慶喜はどうでもいいが、幕府存続のために…慶喜に寛大な処置を」
西郷隆盛、静寛院宮を「賊の一味」とののしる
西郷
「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わでは相済まず、必ず越(越前)土(土佐)などよりも寛論起り候わんか。然れば静寛院と申しても、矢張り賊の一味となりて、退隠位にて相済み候事と思召し候わば、致し方なく候に付き、断然追討在らせられたき事と存じ候。かく迄押し詰め候処を、寛やかに流し候ては、再びほぞをかむとも益なき訳に到り候わん」(大久保利通宛所管、二月二日付)
寛永寺大慈院で謹慎
慶応四年2月12日、
江戸城を出て上野寛永寺大慈院(現根本中堂)の一室に
新政府に恭順・謹慎をしめす
旧幕臣をなだめるのは面倒
出家の願望もあった?
世間「慶喜公はお気の毒だ」
西郷・大久保「斬首!切腹!」
慶喜からの謝罪書も差し戻す
江戸城総攻撃回避
三月十三日、十四日
勝海舟と西郷隆盛の会見
パークスが江戸城攻撃に反対した説
4月4日
新政府より徳川家に最終的な決定伝達
・徳川の家名存続は許す
・慶喜は死一等を減じ、水戸へ謹慎とする
・江戸城は明け渡し、尾張徳川家預かりとする
・軍艦・武器は没収し、追って相当分を差し出す
・江戸城内の家臣は城外で謹慎とする
・慶喜の妄動を助けた者は死一等を減ずるが、ふさわしい処分を行う
寛大な条件。幕府方にとつて大成果
江戸から水戸へ
4月11日
江戸城明け渡し
同日
慶喜、寛永寺大慈院を出発
家臣200人あまりが護衛
憔悴しきり、髭はのび、黒木綿の羽織に小倉の袴をつけ、麻裏の草履
日光街道を千住まで進み、千住からは水戸街道。彰義隊が千住まで警護し、頭取の渋沢成一郎は松戸まで付き添う。
4月15日、水戸到着
21年ぶりの帰郷
以後、弘道館での謹慎生活
4月21日
東征大総督・有栖川宮熾仁親王が江戸城入り
江戸城に新政府の総督府
徳川家への処分
閏4月29日、
田安亀之助(徳川家達)(6)「十六代さま」、静寛院宮の強い推挙
徳川家当主に
石高は70万石、
移封先は江戸城と駿府で割れた→駿府に内定
5月15日
上野戦争
彰義隊は半日で壊滅
5月24日
徳川を駿府へ移封、70万石に減封とすること、江戸城を返還しないことが伝達される
彰義隊壊滅のタイミングで
まとめ
・慶喜は江戸に帰府すると上野寛永寺大慈院に謹慎した。
・勝海舟・西郷隆盛の交渉により慶喜は水戸へ謹慎、江戸城は明け渡しと決まった。
・慶喜は水戸にうつり謹慎生活にはいった。
・徳川の家督は徳川家達が継ぎ、駿府70万石に減封となった。
【無料ダウンロード】日本の歴史 解説音声91本・18時間
https://history.kaisetsuvoice.com/DL/
・学生時代、歴史の授業はさっぱり面白くなかった
・しかし大人になってから歴史に興味がわいてきた
という方のための歴史解説音声です。
「仏教の伝来」「清少納言と紫式部」など、91の日本史の名場面を、一回10分程度でわかりやすく語っています