徳川慶喜(十四)鳥羽・伏見の戦い

こんにちは。左大臣光永です。

本日は徳川慶喜の十四回目、「鳥羽・伏見の戦い」です。

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慶応四年(1868)正月、京都郊外の鳥羽街道沿い・伏見街道沿いで新政府軍と旧幕府軍の戦いが勃発しました。鳥羽・伏見の戦いです。

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正月2日

慶応4年(1868)正月2日午前、1万の旧幕府軍、京都に向けて大坂城を出発

大坂城には後詰として5000の兵が残される

2日夕方、軍勢は淀に到着

幕府陸軍奉行・竹中重固(たけなか しげかた)の指揮する先遣隊はさらに北上し伏見奉行所に入る

残りは淀城を本陣として駐屯。この後、会津藩兵を先鋒とする一手が伏水街道へ、桑名藩兵を先鋒とする一手が鳥羽街道に進み、正月3日に合流して京都になだれこむ予定だった。

一方、薩摩・長州・彦根藩兵を中心とする新政府軍はあわせて4500。旧幕府軍の半分以下。

西郷「玉(ギョク)=天皇をおさえてるほうが勝つ。敵が何万いようと恐れるに足らぬ」

西郷に「尊王」の精神はカケラもなかった
西郷の忠誠心

西郷は下級武士の出身で島津斉彬に見出された
皇室は雲の上の存在でしかない。
西郷の忠誠心は旧主斉彬個人に向けられたもの

新政府軍、鳥羽街道の北の起点近い四ツ塚(京都市南区四ツ塚町)と伏見奉行所(京都市伏見区西奉行町 桃陵団地内)の北に関所を設け、旧幕府軍の進撃を食い止めようとする

正月3日 鳥羽街道の戦い

正月3日午前、新政府軍が鳥羽街道を南下。鴨川にかかる小枝橋(こえだばし)を渡り、鳥羽街道の左右に兵力を展開し、鳥羽街道東側に大砲を設置。

午後4時頃
両軍、赤池(現千本通赤池)で向かい合う

「我々は慶喜公の無実を朝廷に訴え、君側の奸を除かんがため、京都に上ろうとしているのである。通されよ」

「そのような指示は受けていない。戻られよ」

旧幕府軍は二列縦隊で強行突破を図る

薩摩藩兵から発砲

「人斬り半次郎」桐野利秋の命令
桐野は西郷から、先制攻撃をしかけるよう命じられていた

旧幕府軍は銃弾さえ装填していなかった

【戊辰戦争の幕開け】

西郷隆盛は京都二本松の薩摩藩邸で第一報を受け、

「鳥羽の一発の砲声は、百万の味方を得たよりもうれしい」

旧幕府軍、撤退

正月3日 伏見の戦い

御香宮神社前の大手筋通りを隔てて、北に新政府軍、南に旧幕府軍が対峙、市街戦

伏見の料亭「魚三楼」に残る銃弾の跡

新政府軍が伏見奉行所に突入
旧幕府軍、撤退

正月4日未明

未明、
仁和寺宮嘉彰親王、征討大将軍に任じられる

錦旗(錦の御旗)と節刀(朝敵を討つための刀)を授かる

薩摩・広島藩兵を率いて、東寺に大本営を置く

鳥羽街道を南下、淀城まで進撃

錦の御旗の出御

錦の御旗の真偽は?

岩倉具視が国学者の玉松操にデザインさせ、大久保利通が囲っていた祇園一力亭の芸妓・お勇に西陣の呉服屋から大和綿と紅白の緞子を買ってこさせ、これを品川弥二郎が長州に持ち帰って作ったもの

「錦の御旗(錦旗)」とは、朝敵を討伐する将軍に対して、朝廷から与えられる。承久3年(1221)後鳥羽上皇が城南宮の馬場で開催した流鏑馬にことよせて、武将十人に下したのがはじめとされる。

正月4日 

鳥羽街道の戦い
一進一退

伏見の戦い
旧幕府軍は伏見奪還をこころみるも総崩れとなり、淀に撤退

正月5日

正月5日早暁、新政府軍は全軍を三手に分け、伏水街道・鳥羽街道・山崎街道(西国街道)を通って、旧幕府軍の拠点・淀に向けて進撃を開始

旧幕府軍は伏見方面・鳥羽方面・山崎方面にそれぞれ部隊を展開

旧幕府軍は撤退を重ね、淀へ

土方歳三「もう槍や刀の時代ではない」と確信

淀の戦い

旧幕府軍、淀まで撤退し立て直しをはかる

淀藩が城門を閉ざし、旧幕府軍の入城を拒む

表向きの理由
「淀城主・稲葉正邦は目下、老中として江戸にある。城主不在では判断ができない」

本音
「旧幕府軍はもうダメだ」

淀に新政府軍が押し寄せ、民家を砲撃。淀城、開門


旧幕府軍、淀を放棄
宇治川をわたり八幡(やわた)・橋本方面に

正月6日 津藩の裏切り

津藩1000が、対岸の旧幕府軍に向けて砲撃

津藩は初代藤堂高虎以来、徳川に忠誠篤いが

前日、四条隆平(たかとし)が来て、

「ただちに官軍側につけ。その第一歩として、目の前の幕府軍を攻撃せよ」

隊長藤堂采女、橋本の旧幕府軍陣営に

「徳川家の恩はあえて忘れはしないが、勅命を受けた以上、従うしかない。この上は早々に兵を引かれよ」


旧幕府軍、大坂に撤退

正月6日 慶喜の大坂城脱出

正月6日夕刻、大坂城で軍議

慶喜
「今後どうすべきか」

会津藩家老・神保内蔵助
「江戸に撤退しましょう」

新選組局長・近藤勇
「私に300の兵をお預けください。一ヶ月は戦ってみせましょう。もし負け戦となれば潔く討ち死にします。一人も討ち死にする者がないとなれば、東照宮さま(家康)に面目が立ちません」

皆「!!」

慶喜
「そのほうらの忠義、嬉しく思うぞ。すぐに戦の準備をいたせ。こたびは余みずからが出陣しようぞ」

夜10時頃
慶喜、老中板倉勝静(いたくらかつきよ)、酒井忠惇(さかいただとし)、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬(まつだいらさだあき)ほか数名の側近を引き連れてひそかに大坂城裏門から脱出

小舟で淀川を下り天保山沖に出て、榎本艦隊の軍艦・開陽丸を目指した

暗闇のため見つからないので、アメリカの軍艦に助けを求める

翌7日朝、慶喜一行は、天保山沖に停泊中の開陽丸に乗り込み、8日朝、副艦長沢太郎左衛門(さわ たろうざえもん)に出港を命じる


「開陽は大阪湾に停泊中の幕府艦隊の旗艦です。旗艦が単独で出港はできません。艦長の榎本武揚も外出中ですので、出港は延期してください」

慶喜
「ならん。すぐ出せ」

11日夜半、品川沖着
12日江戸城西の丸入

慶喜はいつ大坂城脱出を決めたか?
真意は?

瓦解する幕府軍

大坂城では、
会津・桑名「やってらんねえ!!」

翌7日
徳川慶喜追討令

9日
薩長が大坂城を接収

10日
徳川慶喜の官位剥奪・領土没収

慶喜、朝敵となる

まとめ

・慶応四年(1868)正月鳥羽・伏見の戦
・旧幕府軍は各地で破られ、錦の御旗の出御もあり大坂まで撤退
・慶喜は大坂城をひそかに脱出。江戸へ。

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