徳川慶喜(十三)王政復古のクーデター
コールデンウィーク、いかがお過ごしでしょうか。私は実家の熊本に帰省しています。昨夜は近所にある「梶井温泉」に入ってきました。とても湯が熱く、カーーッとなりました。
浴室の蒸気の中にぼうっと輝くオレンジ色の灯りが、昭和のわびしさをただよわせていいました。露天風呂に一本植えられた青紅葉が色づいて、よい風情でした。壁ごしに聞こえてくるおばちゃんたちの会話が、とても元気がよかったです。
本日は徳川慶喜の十三回目、「王政復古のクーデター」です。
↓↓↓音声が再生されます↓↓
慶応三年(1867)12月9日、明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、新政府が誕生しました。同日の小御所会議で、前将軍慶喜と徳川家への処分が決まりました。
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前回まで
慶応三年(1867)10月、徳川慶喜、大政奉還
薩摩の倒幕派は武力倒幕の口実を失った
王政復古の大号令
西郷・大久保ら軍事力を背景としてクーデターを画策
歴史の転換点を演出する目的
薩長広島など、藩兵を京都に送る
岩倉具視の画策
慶応三年(1867)12月8日夕刻~
摂政二条斉敬(なりゆき)はじめ諸官・諸藩主が参内し、朝議が開かれる
岩倉・毛利父子・三条実美らの罪ゆるされる
12月9日払暁、岩倉参内
王政復古の詔勅案を入れた箱を持って宜秋門から
岩倉
「かねてから奏上の、王政復古の案、本日断行します」
明治天皇
「うむ…」
薩摩藩兵ら、御所の門をおさえる
薩摩・広島・福井・尾張
土佐は武力倒幕には反対。決起にくわわらず
宜秋門
桑名藩が警備についていたが逃げ出す
蛤御門
会津藩兵が警備についていたが薩摩藩が押し寄せると抵抗もせず逃げ出す
午後4時、
岩倉具視、小御所にて王政復古の大号令の文書案を決定
明治天皇(16)、学問所にて王政復古の大号令を発す
大政の返上。徳川慶喜の辞表を受けること。摂政・幕府の廃止。新政府には「総裁」「議定」「参与」の三役を置くこと。すべてを「神武創業のはじめ」にもとづいて行うこと。各々勉励し、尽忠報国の誠をもって、奉公すべきこと。
新政府の人事を発表
数時間の出来事
小御所会議
午後6時-
はじめての三職(総裁・議定・参与)会議
=小御所会議
徳川慶喜の辞官納地がいちばんの議題
岩倉
「慶喜公がほんとうに反省しているならば、官位を辞し、領地を返上し、誠意を示すべきであろう」
山内容堂
「本人不在での議論は不公平だ」
議論は深夜におよぶ
休憩中、薩摩藩士・岩下佐次衛門が西郷隆盛を呼び迎え、意見を求めた
西郷
「短刀一本あれば片付くことです」
結局、辞官納地させることに決定
(本音)
新政府はできたばかりで金がないので徳川の領土を奪ってこれに当てる
午前2時、会議終了
二条城の混乱
12月10日、議定徳川慶勝・松平春嶽、二条城へ
「辞官納地してください」
家臣ら
「バカな!」
「薩賊討つべし!」
「薩摩と組んで徳川家を売ったおいぼれ(慶勝)め!」
同日、長州の先遣隊が相国寺に布陣
翌11日~薩摩・広島・福井・尾張藩兵ともに宮門の警備につく
慶喜はクーデターの三日前から計画を知っていた
越前から知らされていた
【大いに葛藤】
しかし計画を潰さなかった。なぜか?
・内乱が長引くと外国の介入をまねく
・新政府でしかるべきポストが与えられると期待?
12月12日、慶喜と旧幕臣、大坂へ
旧幕臣・会津・桑名。とくに会津
「薩摩はご幼少の天子をかついで私利私欲のふるまいをしているッ!!」
「御所に出兵して薩摩を除くべし!!」
慶喜
「まあまあまあ…」
慶喜、外交権をおさえる
慶応3年(1867)12月13日
徳川慶喜、大坂城入り
軍事・外交で新政府に反撃
軍事面
幕府直属軍やフランスの軍事顧問団を招集
外交面
フランス公司ロッシュの提案を容れて、12月16日、フランス・イギリス・アメリカ・イタリア・プロシア・オランダ、六カ国の公司らを引見
12月9日のクーデターを激しく非難
旗本や譜代の諸藩は余に対して兵を挙げよと迫るが、余は戦争は好まないので、ひとまず大坂に下った。(クーデター政権の)暴虐のふるまいを見るに、幼主を立てて叡慮(天皇のお心)にことよせて私の利を求め、万民を悩ませるのは見るに忍びない。余はあくまでも全国民と協力して正しい道を貫こうと願っている。
↓
六カ国公使、承認
「外交権は徳川にある」と認識された
12月14日の朝議
「慶喜を議定とする」
「早急に上洛せよ」の方向で決まる
挙正退奸の上表
12月18日、「挙正退奸の上表」を新政府総裁・有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王に提出しようとする
新政府が幼帝の意思をじゅうりんしていると非難
↓
岩倉具視によって握りつぶされ、明治天皇にとどかず
慶喜の勝利
12月21日、松平春嶽と山内容堂に書状をたくし、朝廷に届ける
「私のほうから納地を願い出るために上洛すると、部下が黙っていませんから、朝廷から召されたという形式にしていただきたい。なお上洛の際は部下を引き連れますが、誤解のないように」
↓
12月23日の三職会議で承認
↓
松平春嶽・山内容堂の案:
「政府の必要に応じて、徳川の領地を「献上」せよ。もし徳川の領地を「献上」するなら、慶喜が新政府に貢献することを許す」
大久保利通は規約がかわり、その場にいなかった
12月26日、松平春嶽・山内容堂、大坂城入り、慶喜にこの決定を伝える
慶喜「よし!」
ところが、
12月28日、大坂城に届いたしらせ「去る12月25日、江戸で市中警備の庄内藩兵が、薩摩藩邸を焼き討ちにした」
西郷隆盛の撹乱工作
西郷隆盛、下総郷士相楽総三(さがら そうぞう)ら浪士約500人を集め、江戸市中で強盗や放火をさせる
徒党を組んで練り歩き、金持ちの家に押し入っては金品を強奪
庶民「御用強盗」
それを鎮圧する幕府歩兵隊もガラ悪い
江戸にはじまり、
相模・常陸・武蔵・上総・下総の各地で無頼漢たちが蜂起し、「勤王」「討幕」をかかげて、放火・略奪
西郷隆盛のねらい
・幕府の衰退を印象づけること
・幕府の側から戦を起こさせること
江戸薩摩藩邸焼き討ち
慶応三年(1867)12月15日、
薩摩藩邸に預けられていた土佐藩士、
庄内藩の屯所に発砲
庄内藩士「もうーー許せん!!」
↓
庄内藩兵と幕兵による2000人で三田の薩摩藩邸を取り囲み、「庄内藩邸に発砲した犯人を引き渡せ」
四方から砲撃
薩摩藩士・浪士49名討死
相楽総三らは京都に逃げる
↓↓
12月28日、大坂城に事の次第が届く
旗本・会津・桑名「薩賊討つべし!」
慶喜「……」
「辞官・納地」の件、直前でひっくり返される
討薩の表
慶応4年(1868)正月1日、「倒薩の表」を作り、これに薩摩藩の罪状を挙げた別紙を添えて、朝廷に奏上しようとした
「12月9日以来のことは、まったく薩摩の悪巧みから出たことである。ことに、江戸・長崎・関東の騒乱は、すべて薩摩の謀略である。東西相呼応して、全国を乱す所業である。天も人も憎むところである。よってこの奸賊どもを引き渡していただきたい。もし聞き入れられないのであれば、やむをえず誅戮(罪ある者を殺すこと)を加えねばならない」
実質的な薩摩に対する宣戦布告
まとめ
慶応3年(1867)12月9日、王政復古のクーデターが起こされ、新政府が誕生した
同日の「小御所会議」で、前将軍徳川慶喜と徳川家に対する処分が決まった
慶喜は大坂に下り軍事・外交を掌握するなど新政府への反撃をこころみた
西郷隆盛の工作により江戸ではテロが多発。ついに薩摩藩邸焼き討ち事件が起こる
慶喜は主戦論を抑えることができなくなり薩摩藩の非を訴える「倒薩の表」を作り、奏上をこころみる
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