殿下乗合事件
平家と摂関家の確執
平家と摂関家の関係は悪化していました。
清盛の娘盛子は近衛家の近衛基実に嫁いでいましたが、基実が亡くなった後、相続問題となります。
この頃、摂関家は三つの家に分かれていました。あの保元の乱で勝利した藤原忠通の息子たちが、それぞれ家を興したのです。
一つが基実の属する近衛家。
一つが摂政基房の属する松殿家。
そして右大臣兼実の属する九条家です。
近衛家・松殿家・九条家
近衛家の基実が死んだ時、息子の基通はまだ幼かったので、本来、基実の弟である摂政基房が土地の多くを相続すべきところでした。
しかし、清盛は、摂関家の事情にくわしい藤原邦綱の助言に基づき、摂関家の土地を奪うべく策謀を行います。
摂関家所領のうち、殿下渡料(てんかわたりりょう)といって摂政・関白の地位に付随するわずかな土地を基通に渡し、残りの大部分の氏長者領(うじのちょうじゃりょう)を、未亡人である盛子に管理させるというものです。基実の息子が成人したら引き渡すという名目でしたが、実際は盛子の後見人である清盛のものになるに決まっていました。
「ペテンだ!清盛に、土地を奪われた!」
摂政基房は飛び上がって怒り狂ったでしょうが、後白河上皇の寵愛篤い清盛のことで、どうにもなりませんでした。
その後も未亡人盛子について、噂が絶えませんでした。摂政松殿基房と再婚するとか、後白河法皇の後宮に入るとか、世間は噂しあいました。それも、盛子が摂関家の広大な所領を相続したことに対する、嫉妬から来たものでしょう。
もともとエリート意識のすさまじく強い摂関家ですから、成り上がり者の平家に対する反感があります。そこに加えて、土地を奪われたのです。摂関家の平家一門に対する反感は頂点に達していました。
殿下乗合事件
そんな中、平家と摂関家が決定的にぶつかる事件が起こります。
嘉応2年(1170年)「殿下乗合(てんかのりあい)」事件です。
清盛の孫である資盛が、往来で摂政藤原基房の車と行きあったのです。本来なら資盛は道を譲らねばならない所ですが、そこは勢い盛んな平家一門。のぼせ上がっています。ふん、摂政がどれほどのものか。そのまま車を押し通そうとします。「無礼な!」怒った基房の供の者が、ワッとつかみかかり、さんざんに暴行を加えます。
ドカーーッ
ついに、資盛の乗った車を、摂政藤原基房の手の者がふみ打破りました。
「なんと!小松殿の御曹司の車であったと!」
摂政藤原基房は恥辱を加えた相手が平家と後で知り、あわてて資盛の父・重盛に謝罪してきます。しかし、重盛は許しませんでした。
「たとえ摂政でも、わが子にこのような仕打ち。目に物見せてくれる」
重盛は、摂政藤原基房の車を待ち伏せし、武士をもって襲わせ、殴る蹴るの暴行を加えた挙句、基房の手勢のもとどりを切り落としました。
『平家物語』では襲撃させたのは清盛で、重盛はむしろ父をなだめたと書かれていますが、これは事実に反します。また、事件の細かいあらましは資料によってだいぶ違います。しかし資盛が暴行を受けて、重盛が報復したという大筋は共通しています。
重盛は、鹿谷事件では法皇に捕縛の手をのばそうとする父清盛をいさめており、聡明で道理をわきまえた人物として記録されています。慈円は『愚管抄』に「小松内府(こまつのないふ)=重盛は心の美しい人であるのに、息子の仕返しなどして不思議なことだ」と書いています。
平家一門中の良心ともいうべき重盛すら、ここまで怒り狂ったのです。平家と摂関家の関係は、そこまで悪化していたのです。
ずっと後になりますが、治承3年(1179年)6月、平盛子が24歳の若さで亡くなった時、右大臣九条兼実は、日記『玉葉』にこう記しています。
「盛子が若くしてなくなったのは摂関家の土地をうばったため、摂関家の守り神春日明神の怒りにふれたのだ」と…。
つづき「鹿ケ谷事件」