シベリア出兵と米騒動
いとひろく 山の夕映入りてきぬ 阿蘇氏びとの 軒たかき家(晶子)
先日、熊本県阿蘇市の内牧(うちのまき)温泉郷に行ってきました。湯けむりただよう、古い温泉街です。
九州を東西に横切る豊後街道上にあり、勝海舟と坂本龍馬が長崎に向かう途中に立ち寄りました。
老舗の旅館「蘇山郷(そざんきょう)」は、昭和7年に与謝野鉄幹・晶子夫妻が泊まった部屋が今も保存されています。
さすが晶子の歌は格調高くて、いいです。
先日発売しました、「スピード解説1話2分『古事記』」
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ご好評いただいています。1話2分で簡潔に、『古事記』を解説したのもです。
本日は神話とは何の関係もなく、「シベリア出兵と米騒動」について語ります。
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シベリア出兵。ロシア革命後、革命軍と対立しシベリアで孤立していたチェコスロバキア軍を救出する名目で、アメリカ・イギリスはじめ列強がシベリアに出兵し、日本もこれに便乗したもの。
目的達成後も日本は利権拡大をねらってシベリアにとどまり、1921年のワシントン会議で撤退を表明し、1925年の撤退完了まで、不毛な消耗戦を続けた。
シベリア出兵により日本国内では米価が高騰し、米騒動が起こりました。
シベリア出兵(Siberian Intervention)
イギリス、フランスはじめ欧米列強は、ロシアに生まれた世界初の社会主義政権「ソヴィエト」を警戒しました。
しかし各国、第一次世界大戦の最中であり、しばらく様子見の状態でした。
日本の寺内正毅内閣では、陸軍大臣田中義一が、これを機にシベリアに出兵し、バイカル湖以東に独立自治国家を作り、日本がそれを指導する形で利権を握るべしと唱えました。
しかし
日本独自で出兵するのか?他国と協力して出兵するのか?
また出兵そのものに反対する意見(『大阪朝日新聞』、『東洋経済新報』)もあり、
なかなかまとまりませんでした。
しかし物資の集積地であるウラジオストクが革命軍にわたることだけは早急に手を打つ必要がありました。
1918年4月、日本はウラジオストクに艦隊を派遣し、陸戦部隊も上陸させます。同じ時期、中国の段祺瑞政権と「日華共同防敵軍事協定」を結び、中国国内を自由に通行できる権利を得ました。
ここまでなら日本の軍事行動はウラジオストクや満州を中心とした、小規模なものに終わったかもしれません。
しかし
1918年5月、状況が変わります。
チェコスロバキア軍とソヴィエト(ボルシェヴィキ)との対立が起こったのです。
もともとチェコスロバキア人はオーストリアからの独立運動を進めていました。そのため、チェコ人の中にはオーストリアの敵であるロシアに身をよせ、連合国側に立ってドイツ・オーストリアと戦う者も多くありました。
これらの兵士はロシア軍の「チェコ軍団」に編成され、東部戦線においてドイツ・オーストリアと戦っていました。
そこへロシア革命が起こり、革命政権(ボルシェヴィキ)がドイツと単独講和したため、チェコ軍団は微妙な立場に立たされます。
「敵(オーストリア)の敵(ロシア)は味方」ということでロシアに身を寄せていたのに、そのロシアに革命が起こったため、「敵(オーストリア)の敵(ロシア)の敵(ソヴィエト)は敵」ということで、チェコ軍団はソヴィエトと敵対することになります。
だからチェコ軍団は、イギリス・フランスに合流するため、シベリアを経由して西部戦線に向かおうとしました。
ソヴィエト政府はこれを見逃さず、チェコ軍団に武装解除を命令しました。するとチェコ軍団はシベリアに反ボルシェヴィキ政権を作りました。
この事件は連合国が対ソ軍事干渉を行う、絶好の口実となります。
社会主義者の魔の手から、同胞をまもるんだと。
7月6日、アメリカはチェコスロバキア軍救出のため派兵を決定し、8日、日本に期間限定の派兵を要請してきました。これを受けて、13日、日本はシベリアへの派兵を閣議決定しました。
8月2日、シベリア出兵を宣言。
8月4日、ウラジオストク派遣軍司令部が設置され、第二・第三師団を派遣。
アメリカ7000人、イギリス5800人、中国・イタリア・フランスは1200-2000人、日本は1万2000人以下と協定で決められていました。そして、チェコスロバキア軍救出がすむとすぐに撤退する取り決めでした。
しかし日本は協定を無視して、補給部隊もあわせると7万2400人を順次、増兵し、バイカル湖以東を制圧しました。
当然、アメリカは日本に抗議してきましたが、日本は軍事行動のゴリ押しをやめませんでした。
アメリカはじめ諸国はチェコ軍救出の目的を達すると、1920年1月から撤退をはじめます。
しかし日本は「居留民保護」や「赤化防止」といった名目でシベリアに居座り続けました。
兵士たちからすると、戦う相手がはっきりせず、戦略目標もあいまいで、何のための戦かわからず、士気が上がりませんでした。
現地の労働者や農民たちのゲリラ戦にあい、強烈な寒さもあり、戦いは厳しいものとなりました。
尼港事件
日本軍は広大なシベリアの各地に兵力を分散せねばならず、したがって、各地点における兵力は小規模になりました。大規模な敵に遭遇した場合、悲惨な結果になりました。
たとえば1920年3月から5月にかけて、黒龍河口のニコライエフスク(尼港にこう)がソヴィエト側のパルチザンに包囲されました。
いったん休戦協定が結ばれますが、それが破れ、民間人もふくむ日本人700人あまりが死亡し、120人あまりが捕虜になりました。
(協定を破ったのはソヴィエト側だったのか日本側だったのかは日ソで見解が分かれます)
この「尼港事件」は革命軍が残虐であるというこで世界中で大きく宣伝されました。
シベリア撤兵
1921年11月からのワシントン会議で日本はようやく撤退を表明し、1925年に撤退完了しました。
それまでに7万3000人をシベリアに送り込み、3500人が死亡したり捕虜となり、9億円の戦費を費やしました。
シベリア出兵はまさに「国際的悪評以外に何も得るところのない」、不毛な戦いでした。
米騒動
シベリア出兵に、庶民は怒っていました。
「俺たちの税金をムダに使いやがって!」
「賃金は上がんねえのに米はどんどん高くなっていくしよお…」
1918年(大正7)夏、富山県西水橋町(にしみずはしまち)、東水橋町(ひがしみずはしまち)、魚津町(うおづまち)など日本海沿岸の町で、漁師の妻が大挙して役場におしかけ、米の積み出しを阻止しようとはかりました。
「米の買い占めはやめろーッ」
「売り惜しみをするなーーッ」
「でないと焼き討ちだわよ!!」
夏場の端境期で米が品薄であったことに加え、シベリア出兵にともない米の買い占め・売り惜しみが行われため、米価が高騰していたのです。
男たちは北海道や樺太に遠洋漁業にでかけていたため、はじめ運動をになったのは主婦でした。
ために、新聞は「越中女一揆」と報じました。
富山ではじまった米騒動は新聞の報道をきっかけに全国に広がります。大阪で、京都で、名古屋で、神戸で、打ちこわしや焼き討ちが起こり、軍隊が出動するさわぎになりました。
「たたッ壊せーー」
「クソ成金めが!」
ドガチャーーン
バッキーー
ヒィィィ…
各地で米問屋や金持ち、地主への打ち壊しが行われました。騒ぎは東海、近畿、中国地方、四国、九州にも広がり、朝鮮にも飛び火します。
参加者は職工、日雇い、土方、人力車夫などが多く、女性も加わっていました。被差別部落民や朝鮮人も参加しました。
寺内内閣は、警察や軍隊を派遣して鎮圧をはかりました。
その一方で、外米を緊急輸入したり、日本米を安く売ったり、皇室や富豪からの寄付金を救済に当てたりしました。
新聞は米騒動を好意的に報道し、こうなったのは寺内内閣の専制政治が悪いと、政府を批判しました。
「ええい、新聞が余計なことを書くから、政府への批判が高まる!」
政府は米騒動について報道することを新聞社に禁じます。すると、新聞社から反発が起こります。
「言論弾圧をするな!」
「寺内内閣は総辞職しろ!」
中には白紙の新聞を発行して寺内内閣に抗議した新聞社もありました(当時の新聞は気骨があったんですね!)。
米騒動は1ヶ月半あまりで次第におさまりました。
その間、25000人以上が検挙され、うち7786人が起訴され、死刑2人、無期懲役12人。ほか大部分は騒擾罪を適用されました。
(死刑になった二人は和歌山県の部落民であり、政府とマスコミがことさらに部落民の犯罪を強調し、民心を米騒動から引き離そうとした結果ともいわれます)
9月21日、寺内正毅首相は騒動の責任を取る形で辞任。
かわって9月27日、立憲政友会総裁の原敬が新しい首相に就任しました。
日本初の平民出身の首相であり、日本初の本格的政党内閣でした。
次回「原敬内閣と普通選挙運動」に続きます。
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