平忠盛の海賊討伐
平忠盛は鳥羽上皇の信任を得て、順調に昇進していきます。久安5年(1149年)正四位下に叙せられ、美作守、播磨守、刑部卿に至ります。
(ふう…まずはこんなところか)
日宋貿易で富を築き、渡来のめずらしい品々を鳥羽上皇に献上し、ますます気に入られていきました。
武勇にもすぐれ、僧兵の鎮圧でも名を上げます。保安4年(1123年)、越前守に任じられたのは僧兵鎮圧によるものでした。
南海・西海における海賊討伐においても、忠盛の武力は発揮されました。
「おら米よこせッ。いい女よこせーーーッ!!」
大治4年(1129年)山陽・南海両道に海賊があらわれ、暴れていました。国司もその勢いの前に、まったく手が出せませんでした。
「備前守平忠盛。すぐさま賊徒の討伐に向かえっ」
「ははっ」
この時の海賊鎮圧の結果は不明ですが、6年後の保延元年(1135年)にも海賊討伐を命じられていることから、それなりの成果があったのでしょう。
この時の記録はかなり詳細に残っています(『長秋記』および『中有記』)。
またも海賊あらわる。
その報が朝廷に届くと、急きょ、
追討役の人選について話し合われます。
「平忠盛と源為義。
どちらを行かせたものでしょうか」
源為義は出雲で反乱を起こした源義親の子で、後に保元の乱にも参加する人物です。
「忠盛は西海に勢いがあるとの聞こえがあります。
忠盛を行かせましょう」
「そうです。忠盛以外にない…いかがでしょうか上皇さま」
忠盛びいきの鳥羽上皇のお答えは決まっていました。
「うむ。為義を行かせれば途中の国々が滅亡するであろう。
忠盛を行かせるのがよい」
忠盛は美作守、播磨守、備前守などを歴任し、西国に縁が深かったのです。一方、為義は西国に縁がありませんでした。こうして忠盛が海賊討伐へ赴くこととなります。
戦いの具体的な内容は記録が無くわかりませんが、当時18歳の長男清盛も、父の右腕として戦果を挙げたことでしょう。
この年保延元年(1135年)8月19日。忠盛は海賊の首領日高禅師以下70名あまりを捕え、京都に凱旋します。
盛代な凱旋行列が行われます。日高禅師の手が後ろにまわり馬に乗せられ、その前を将軍平忠盛が、さっそうと行くのです。
「あれが忠盛さまか、いい男ぶりだなあ」
「甲斐庄ある男って素敵ねえ~」
やんやと歓迎する京都市民でしたが…どうもこの凱旋にはおかしな所がありました。
『中右記』によれば忠盛は捕えた者のうち主だった者だけを都に入れて、あとは間道から都に入れたといいます。もしかしたらあとの者は忠盛が用意したサクラだったかもしれないと噂されました。つまり、おのが武勇を華々しく印象づけるため、捕虜の数を盛ったのではないかと。忠盛の父正盛が、かつて源義親を追討した時と同じような疑惑が、現在でも言われています。
この時の海賊討伐の功績により、長男の清盛は従四位下に序せられ安芸守に任じられました。
「いよいよぞ清盛。これからはお前の時代じゃ。しっかりやれ」
「ははっ父上」/p>
若き清盛の肩には、平家一門の将来がかかっていました。/p>
つづき「日宋貿易」