キリスト教の伝来(二)

「イゴヨクなろう」

学校でそう習った方も多いと思います。イゴヨクナロウ。1549年にカトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩を訪れ、キリスト教を伝えました。昨日今日、2日間にわたってキリスト教伝来前後の事情について、お話ししています。

京都

「何ですかこれは…!!」

天文19年(1550)年12月、フランシスコ=ザビエルは天皇に謁見するため、京都に向かいます。ザビエルは堺の商人・日比屋了珪(ひびやりょうけい)に迎えられ、京都に入ります。ところが!

京都でザビエルを待っていたのは、驚くべき光景でした。

「酷い…どうしてこんなことに!」

ザビエルが想像していた花の都とは、まるで違っていました。応仁の乱と、その後の戦乱により京都の町は破壊しつくされ、荒れ果てていたのです。しかも、天皇の権威もすっかり失われていました。

「天皇はん?知らん知らん」
「天皇?そんなん聞いたこともない」

そんな感じでした。

ザビエルの考えでは、天皇をキリスト教に改宗させ、それによって上から下まで、日本国民全員をキリスト教徒にするということを考えていたようですが、これではどうしようもない。断念さぜるを得ませんでした。たった11日間の滞在で、ザビエルは京都を去ります。

京都を去ったザビエルは平戸を経てふたたび山口に赴き、山口をキリスト教布教の拠点と定めます。何しろ、山口の領主・大内義隆は南蛮貿易にも熱心で、海外の文物にも理解がありました。

布教の困難

しかしザビエルの布教活動は、誤解されることも多くありました。当初、アンジローに翻訳を頼んでいて、キリスト教の神のことを大日如来の「大日」と置き換えて訳していたために、ああなるほど、キリスト教は仏教の一宗派なんだと、誤解されました。

「だから大日、大日がおっしゃいました、わかります?大日」

そんなふうに話していると、真言宗の僧たちが、

「わかりますわかります。大日如来。我々の信じているものと同じだ」

「大日如来…それ違うます!ぜんぜん、違う」

そんなこともあったため、ザビエルは後に大日という言葉は使わず、ラテン語の原音からデウスという言葉を使うようになりました。

ロレンソ了斎

さて山口の町でザビエルが布教活動をしていた頃、

べべん、べんべんべんべん…
祇園精舎の鐘の声~~

いい声が聞こえてきた。

「あん?何ですかあれは」
「ああ、あれは琵琶法師というものです。ああやって節をつけて、物語を語るんですよ」
「ほーう、なかなかいいものですね…ちょっとちょっと、あなた、いいお声ですねえ」

「どなたでしょうか?すみません。目が…見えませぬもので」
「や、こちらこそ失敬。私はイエズス会の宣教師・ザビエルと申します」
「ははあ、異国のお方ですか」

以後、この琵琶法師はたびたびザビエルの元でキリスト教の話を聴くうちに、すっかりキリスト教に魅了され、ついにイエズス会に入会するまでになりました。

ロレンソ了斎(りょうさい)です。

我らの日用の糧を~べべん
今日も我らに与えたまえ~べべん
我らに罪を犯すものを我らが許すごとく~べべん
我らの罪をも許したまえ~~べん、べん、べんべんべん…

ロレンソ了斎は琵琶法師でならした語りの技で、キリスト教の教義や聖書の物語を語り、多くの信者を獲得していきました。

日本布教の限界

ザビエルは日本宣教において行く先々で日本人から尊敬を受け、歓迎されました。それでも、日本人がキリスト教を受け入れるかというと別問題でした。宣教は困難を極めました。

当時の日本人がキリスト教に対して感じた疑問がいくつかあります。

「キリスト教の神さまが救いをもたらしてくれるということですが、だったらなぜ、今までその神さまは、日本にはあらわれなかったんですか?そんなにいいものなら、さっさと現れればいいじゃないですか」

「キリストさんに従うことだけが救われる道っていうけれど、だったら、キリストさんの教えを知る前に死んだ私の御先祖さまは、全員地獄に落ちたってことですか?」

なぜキリスト教が長い間日本に伝わらなかったのか?それはキリスト教が世界の片隅のローカル宗教であり、日本が世界の片隅のローカル国家であるから、ローカルからローカルに伝わるのに時間がかかったというだけの話です。

しかしキリスト教を唯一絶対とする立場からは、そう言ってしまうわけにはいきませんので…、ザビエルはこのような理屈に持っていきます。

「いや、日本に宣教が行われる前にも、日本人は聖書の教えを潜在的に身につけていた。だから、日本人は人を殺してはいけないとか、盗みをしてはいけないということを、当たり前の道徳として持っているのだ。それは聖書にある十戒の教えが潜在的に、日本人の中にもあるのだ」

そして、「キリスト教の教えを知らずに死んだ私の御先祖さまは、地獄に落ちたのか」という質問に対しては、ザビエルはもちろん「落ちた」と考えていましたが、それを言うと日本人が落ち込むので、

「たしかにキリスト教を知らずに死んだけれども、それでも良心に従い人を殺さない、盗みをしないという十戒の教えを守っていたんだったら、地獄には落ちない。それは、潜在的に十戒の教えを守ることが、日本人の中にあったからなのです」

と言い繕っています。

そうとう苦しい説明です。

日本の宗教観や文化をキリスト教の世界観の中に、強引に押し込めて説明しており、説得力はゼロです。

そもそも「殺すな」とか「盗むな」といった道徳は、世界のほとんどの宗教や文化に存在している一般的なものであって、聖書の十戒がそれら全てのオリジナルであると主張するのは無理があります。

とはいえ、これらの質問に対しては今日のキリスト教会でも明確な答えを述べることはできないはずです。

なにしろ聖書の隅から隅まで読んでもこのような問題については何も書いてないので、「わからない」というのが最も誠実な答えになるかと思います。

疲れ果てたサビエル

ザビエルは晩年、在欧のイエズス会士に当てた書簡の中で、述べています。肉体的には元気だが、日本から精根尽き果てて帰ってきたと。

当初、ザビエルは日本伝道に強い期待を抱いていました。「この国の人びとは今までに発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒の間には見いだすことができない」と言い、日本人の理性による判断を重んじる国民性に感心しています。

しかし…はじめてみると、思ったほど伝道はうまくいきませんでした。日本人ははするどいところをついてくる。言葉につまることもしばしばでした。

また、ザビエルは浄土宗や日蓮宗の僧侶を「悪魔の手先」と罵り攻撃したため、反対に彼らから宗教論争をしかけられて、しばしば論破されました。

ザビエルと日本の僧侶との宗教論争は一般に公開され、嘲笑の的となりました。ザビエルはそうとうプライドを傷つけられ、凹んだようです。

殴ったら殴り返されるのは当然なのですが…奇妙なことに、ザビエルは殴っても相手はおとなしく頬を差し出してくるものと固く信じていたようです。

結局、ザビエルは「日本の僧侶は優れた才能と頭脳を持っている」ことを認めざるを得ませんでした。そこで「哲学と弁証法に心得のある宣教師を派遣してくれ」とイエズス会本部に要請しています。

自分より口の立つものを使って、憎き僧侶たちを痛快に論破してやりたい…といった考えが見え隠れします。

しかし問題はそんなところではないのであって、他者を理解し異文化を受け入れる寛容性を持たねばいくら論破しようと、ザビエルとキリスト教が日本で受け入れられることは無いと断言できます。

平成の今日になっても、日本ではカトリック・プロテスタントあわせて総人口の1%に満たないということが、全てを物語っています。

フランシスコ=ザビエルが日本に滞在したのは1549年から1551年までの2年3ヶ月にすぎません。こんなに短い時間では、宣教の成果など上がるはずもありません。投げ出すのが早すぎます。

またザビエルは日本を「死ぬほど寒いところだった」と言っています。食べ物は「米と少しの野菜しかなかった」とも言っています。

しかしザビエルが滞在した鹿児島や平戸、山口はとても温暖な気候です。死ぬほど寒い…素っ裸で宣教でもしてたんでしょうか?

それに米と少しの野菜があればじゅうぶんでしょう。宮沢賢治を見習えと。「雨ニモマケズ」の朗読を48時間エンドレスで聴かせてやりたくなります。

他国の文化を否定し、思想侵略を仕掛けてきたわりには覚悟が足りなさすぎです。根性が座ってないです。すべてが中途半端です。出直してこいという話です。

またザビエルは日本滞在中に、ついに一言も日本語を発しませんでした。「私は日本人の中にただ彫像のように立っているだけです」とはザビエル自身の言葉です。

蛮族の言葉など、わざわざ学ぶに値しないということでしょう。このような不遜で不誠実な態度が、いまいち信者が得られなかった理由と思うのですが…どうなんでしょうか。

中国へ

天文20年(1551)11月、ザビエルは2年3ヶ月にわたる日本での布教活動の後、日本を後にし、いったんゴアに帰還し、次は中国への布教に意欲を燃やします。

ザビエルの考えでは、古くから日本と関係が深い中国に宣教し、中国皇帝をキリスト教に改宗させれば、上から下まで中国人がキリスト教徒になり、それに従って中国の影響強い日本でも上から下までキリスト教徒になると考えました。

だからザビエルにとって中国宣教はそのまま日本宣教に密接につながることでした。

「そんなバカな…」

て感じですけども、ザビエルはもちろん冗談でやっているのではなく、命がけの、大真面目でした。

もっともこの頃、明は鎖国しているので、密入国しか方法がありません。

1552年5月、ザビエルはマラッカを後にし、中国人アントニオを伴い、8月、広東省上川(サンチャン)島から密入国しました。

「大丈夫でしょうかねえ。密入国なんかしちゃって…中国の役人に逮捕されちゃうんじゃないかなあ」

「何?神の教えを述べ伝えようというものが、そんなことを恐れるのか。けしからん」

そう言ってザビエルは、同行した修道士アルヴァロ・フェレイラをイエズス会から退会しました。温厚篤実なザビエルでしたが、イエズス会の身内に対しては、このような厳しい一面もありました。

「さあどんどん布教していくぞ中国に」

意気込むザビエルでしたが、1552年熱病に冒され、上川島にて中国人アントニオに看取られながら、息を引き取りました。享年46。

サビエルの人間性と残したもの

総じてザビエルの人生を見渡すと、日本宣教における傲岸不遜な態度や、仏教僧を「悪魔の手先」とののしるわりには逆に論破されるとふてくされてしまうところ、日本人に鋭い質問をされると聖書にない屁理屈を言って取り繕うところ、

日本宣教がムリと見るとアッサリ見限って中国宣教に切り替えるなど、およそ信頼に値する人物とは見えません。

と同時に、それほど悪人とも思えません。

ザビエルが日本侵略の意図をもっていたという説がありますが、それは彼を買いかぶりすぎと思います。侵略者の手先としては、やってることが間抜けすぎます。まず売り込みが下手すぎます。

スペイン国王やイエズス会本部に日本侵略の意図があったなら、もっとマトモな人材をよこすでしょう。

結局、ウッカリ者の小人物、というあたりがザビエルに対する妥当な評価かと思います。

しかし、ウッカリ者の小人物、ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられ、小さな種がまかれたのは事実です。

その後日本では大友宗麟、高山右近、小西行長などキリシタン大名もあらわれるなど、身分の上下に関係なく多くの人がキリスト教を信じるようになっていきます。

一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし

『ヨハネ伝』第12章24節

次回は「織田信長(一) 吉法師」です。

解説:左大臣光永