キリスト教の伝来(一)

「イゴヨクなろう」

学校でそう習った方も多いと思います。イゴヨクナロウ。1549年にカトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩を訪れ、キリスト教を伝えました。今日明日、2日間にわたってキリスト教伝来前後の事情について、お話しします。

ザビエルの出自

フランシスコ=ザビエルは1506年4月、スペインとフランスの国境近いイベリア半島のナバラ王国のザビエル城に、裕福な地方貴族の息子として生まれました。何不自由の無い子供時代を送りましたが、

ザビエル6歳の時に事件が起こります。

1511年3月、スペイン国王フェルナンド5世が、フランス国王ルイ12世に宣戦布告。スペインはフランスに侵攻するに際し、ナバラ王国にも協力を要請しますが、ナバラ王国はこれを拒否したため、1515年6月、スペインによって併合されてしまいます。

その後、ナバラ王国はスペインと敵対したフランスと同盟し、スペインと戦いますが、敗れます。当然、ザビエル家も没落しました。

「いつか必ず、わがザビエル家を再興するのだ」

1525年、19歳になったザビエルはパリ大学に進学し、神学と哲学を学びます。学位取得後、パリ大学で教鞭を取り、アリストテレス哲学を講義します。

学問の世界で身を立て、ザビエル家を再興する。そういう気持ちがありました。

ロヨラ

そんな中、ザビエルの生涯を方向づける、出会いがありました。貧しい身なりをした中年の神学生…イグナシオ・デ・ロヨラとの出会いです。ロヨラはザビエルと同じく、スペインのバスク地方の出身でした。

「小汚い成りだなあ…」

ザビエルは最初、ロヨラに反発を持っていましたが、しだいにロヨラの人柄に惹かれていきます。修道者として東方布教を行う。それがロヨラの信念でした。そのためには、立身出世も、世間の目も、省みない。

ザビエルはもともと、学問の道で身を立て、ザビエル家を復興させることを願っていました。末は司教か大司教、いやいや枢機卿にまでなって、ザビエル家を再興する。それがザビエルが当初考えていた人生設計でした。

またパリ大学でのザビエルの学生生活は、清貧というには程遠いものでした。中流貴族としてのプライドもあり、従者を従えてキャンパス内を闊歩していました。実家はそんなに裕福でないにも関わらず、見得を張ってたんですね。しかしザビエルはロヨラと会って、考えが変わってきます。

「立身出世。家の再興…そんなことよりも、もっと大事なことが、あるんじゃないのか?」

イエズス会結成

1534年8月15日、パリ郊外モンマルトルの丘にて、ロヨラ、ザビエルをふくむ七人の同士が集まり、三つの誓いを立てます。

一、清貧、
一、貞潔、
一、聖地エルサレムへの巡礼。もしくはローマ教皇の命じる所なら、どこへでも行くこと。

いわゆる「モンマルトルの誓い」です。この日を以て、イエズス会発足の日と定めます。

1540年9月、イエズス会はローマ教皇パウルス3世より正式な認可を受け、カトリックにおける修道会として、正式に認められました。総長にはロヨラが選ばれます。

インドへ

時は大航海時代。スペインによって新大陸が発見され、ポルトガルによってインド航路が開拓され、新大陸からもたらさせる大量のメキシコ銀が、ヨーロッパの経済を潤わせていました。

ポルトガルはインド経営に力を入れていました。ポルトガル国王ジョアン3世は、ローマ教皇に働きかけ、インドに宣教師を派遣するよう求めます。そこでイエズス会に声がかかります。総長・ロヨラは、ザビエルを呼び出し、言います。

「フランシスコ、行き先はインドだ。行ってくれるかい?」

「行きます」

1541年、35歳のザビエルはリスボンでポルトガル国王ジョアン3世に謁見した後、船に乗り込み、新天地・インドへ旅立ちました。

ゴアのザビエル

翌1542年、ザビエルはインドのゴアに到着しました。ゴアはポルトガル領インド最大の要塞で、とても栄えている都市でした。以後3年間、ザビエルはゴアを拠点に、インド南東部への布教活動を行います。

1545年9月、ザビエルはさらなる東方への布教を目指し、ゴアからマラッカに移ります。マラッカはポルトガルの海外進出の拠点であり、マラッカ海峡を擁する海上交通の要衝でした。

「さらに多くの人々を、主の教えに導くのだ」

希望に燃えるザビエルこの時39歳。以後、ザビエルはマラッカを拠点に精力的に布教活動を行います。

アンジローとの出会い

マラッカで、ザビエルの一生を変える、大きな出会いがありました。

1547年12月、ザビエルは知り合いのポルトガル商人から、一人の男を紹介されます。

「紹介するよ。彼はアンジロー。日本人だ」
「日本?日本とはどこですか?」

「これより遥か東の海に浮かぶ島のことですよ。私はその日本の、薩摩という国から来たんです」

アンジローは薩摩の出身で、何らかの事情によって国元で殺人を犯しました。そこを、友人のポルトガル人の手引きで、マラッカに逃げ延びました。マラッカでアンジローは、キリスト教に興味を持ち、洗礼を受けようとしたが断られ、まだ洗礼は受けていませんでした。

ザビエルはアンジローに熱心にキリスト教の教えを説きます。アンジローはこれを知識欲旺盛に吸収しました。アンジローはすでにある程度ポルトガル語が話せたため、ザビエルとアンジローの間で意思疎通に問題はありませんでした。後にザビエルは、アンジローについてこのように書いています。

もしも日本人すべてがアンジローのように知識欲が旺盛であるならば、新しく発見された諸地域のなかで、日本人は最も知識欲の旺盛な民族であると思います。…(中略)…彼は知識欲に燃えていますが、それは非常に進歩する印であり、短時間のうちに真理の教えを認めるに至るでしょう。

河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』

ザビエルはしだいに日本に布教したいと考えるようになりました。そこでアンジローに相談します。

「アンジロー、もしも私があなたと共に日本に行くならば、日本人は、キリストの信者となるだろうか?」

「難しいと思います」

「ダメですか」

「すぐには難しいということです。しかし、もしあなたが皆の質問によく答えて、しかも、あなたの中に咎めるべきことが見えないのであれば、彼らは半年ほどあなたを見た上で、領主も、貴族も、一般の人々も、信者になるかどうか考えて、判断するでしょう」

「なるほど。日本人は理性による判断を重んじる。聡明な国民性ですね」

その後すぐにザビエルはインドに旅立っていきます。アンジローはザビエルのすすめで、ゴアのパウロ学院で学ぶことになりました。ザビエルとアンジローはゴアでの再会を約束して別れました。アンジローとの最初の出会いは短いものでしたが、ザビエルのその後の人生を方向づけるものとなりました。

日本での宣教

1549年4月、ザビエルは日本布教に向けてゴアを出発します。いったんマラッカに寄り、6月末マラッカから中国商人の船に乗り込みます。一行の中には、ゴアでの学びを終えたアンジローの姿もありました。船は中国沿岸部を経由しながら53日目に鹿児島に到着しました。

鹿児島ではアンジローの実家を訪ねます。アンジローは人を殺したということですが、そのことについて過去を咎める者はありませんでした。よく帰ってきたな。大変だったろう、大歓迎を受けます。鹿児島の領主・島津貴久(たかひさ)は、キリスト教には関心はありませんでしたが、ポルトガルとの貿易の利益をよく知っていたので、キリスト教の布教を容認しました。

ザビエルは、島津家の菩提寺である福昌寺の御堂の階段に座って、キリストの教えを述べ伝えました。

「なんか面白そうな話やってるな、何だ?」
「天竺宗だってよ」
「ほう、新らしい宗派か」

わあーーっと人が集まってきて、またザビエルには人間的な、人なつこい魅力がありました。またたく間に100人余りが信者になります。ただし当時の人々はキリスト教のことを「天竺宗」といって仏教の一派と考えていました。

ザビエルはイエズス会に当てた書簡の中で、日本人を大いに誉めています。

この国の人びとは今までに発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒の間には見いだすことができないでしょう。彼らは、親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。彼らは、驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいけれども、そうでない人びとも貧しいことを不名誉とは思っていません。

河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』

薩摩を追われる

しかしザビエルは薩摩の島津氏からは不興を買いました。

島津氏は篤く禅宗に帰依していましたが、ザビエルは、禅宗を無神論であるといって攻撃したためです。

キリスト教のみが、救いに至る道なのだ。なにが禅ですか、それは悪魔です。滅びに至る道ですと。

異文化を理解しようとせず、一方的にキリスト教の正義をふりかざし、押し付ける。当時の宣教師の一般的な態度です。

これでは信頼など得られるはずもありません。ザビエルは島津氏の丸に十字紋を見て「島津氏はキリシタンなのかも…」などとバカなことを考えたりもしましたが、結局相手にされず、薩摩を追い出されます。

しかしザビエルは平気でした。

ザビエルはそもそも薩摩で本腰を入れて宣教しようとは考えていなかったためです。最初から、都での宣教を一番に考えていました。

都で、日本国王たる天皇をまずキリスト教に改宗させる。そして上からの命令で、日本国民をすべてキリスト教徒にする。それがザビエルの…というよりイエズス会の考えていた作戦でした。

支配者をまず入信させるのは創設者イグナチオ以来のイエズス会の基本戦略です。だからザビエルは、薩摩の田舎なんか、最初からそれほど大切に考えてはいませんでした。

平戸

天文19年(1550)9月、ザビエルはアンジローを鹿児島に残し、肥前平戸に旅立っていきました。アンジローに代わる通訳としては若き修道士ジョアン・フェルナンデスを連れて行きました。

平戸にはすでにポルトガル船の来航がありましたので、ザビエルの船は歓迎を受けます。領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)にも謁見しました。

大内氏の不興を買う

ついでザビエルは山口に向かい、以前から話を聞いていた、大領主・大内義隆(おおうちよしたか)に謁見しました。

大内氏は中国一帯に勢力を持つ大領主です。

ザビエルは領主大内義隆の前で、1時間以上にわたってキリスト教の教義をとうとうとまくし立てました。

大内義隆は黙ってきいていましたが、「男色の罪は禽獣以下だ」というくだりになると、なにを言うかこのクソ坊主が。追放してしまえ。あっ、ああっ、ちょっと話を、もう少し話をきいてくださいーーー…摘まみだされてしまいました。

顧客を理解しようとせず、一方的に商品知識をまくし立てるセールスマンは、いつの時代も嫌われ、追い出される運命にあります。

ザビエルの失敗には、今日の営業活動においても学ぶべきところが多々あります。

京都

同年12月、ザビエルは天皇に謁見するため、京都に向かいます。ザビエルは堺の商人・日比屋了珪(ひびやりょうけい)に迎えられ、京都に入ります。ところが!

京都でザビエルを待っていたのは、驚くべき光景でした。

次回は「キリスト教の伝来(二)」です。

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本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。ありがとうございました。

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解説:左大臣光永