武田信玄と上杉謙信(六) 信濃掌握
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信玄堤
信濃攻略と並行して、国内の治水工事が行われました。
ざばざばざばざばーーー
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甲斐の国では釜無川(かまなしがわ)が氾濫を起こし、周囲の土地が被害を受けていました。特に、釜無川と御勅使川(みだいがわ)が合流する竜王(りゅうおう)と呼ばれる地域では、被害が激しかったです。
「これではいかん。国を治めるには水を治めなければ」
そこで武田信玄は20年がかりの治水工事に取りかかります。
信玄堤
信玄堤
御勅使川が釜無川と合流する手前に堤防を設けて、御勅使川を二手に分け、まず勢いを弱めます。弱まった御勅使川の流れが釜無川と合流する地点に、クッションとして堤防を築き、御勅使川が釜無川にぶつかる時の打撃を弱めました。
これによって川の流れはゆるやかになり、氾濫を起こすことも無くなりました。20年がかりで工事は完成しました。
信玄堤です。
砥石崩れ 村上義清にまたも負ける
「村上義清め。まだ抵抗するのか!今度こそうち滅ぼしてくれん」
天文19年(1550)9月、葛尾城の村上義清が5000の兵をもって小県の砥石城(上田の東北4キロ)に入ります。武田信玄は8000の軍勢を率いて村上義清の砥石城を攻めますが、天然の要害たる砥石城は簡単には落ちませんでした。半月にわたり包囲しますが、砥石城はビクともせず、武田方は疲弊するばかり。疲れが極限までたまっていました。
砥石城
「やむを得ぬ。ひとまず撤退」
天文19年(1550)10月、信玄は全軍に撤退を命じました。「砥石崩れ」と呼ばれる大敗北に終わりました。上田原に続き、二度までも村上義清によって煮え湯を飲まされた武田信玄。
「村上義清…次こそは必ず!」
真田幸隆の調略
天文21年(1552)、武田信玄は三度目の村上義清への攻撃を開始します。
「今度は過去二回のようにはいかんぞ」
上田原、砥石城と村上義清によって二度の敗戦を喫した武田信玄。今回は周到な準備をしました。敵方の城兵に甲州金をばらまき、買収しておきました。武田が葛尾城を攻めたら背けと。そして信玄自ら馬上の人となり、村上義清の居城・葛尾城(かずらおじょう)を攻めます。
どかかっ、どかか、どかかっ、どかかっ、
「出てこーーい、村上義清!」
すると城兵たちは、
「ひいぃ、武田の軍勢だ」
「降参しよう」
戦いもせず、わらわらと降伏しました。
「ああっ、お前たち!さては武田に買収されているな!!」
村上義清はどうしようもなく、葛尾城を逃げ出します。武田信玄、今回は戦わずして葛尾城を落としました。
「武田の勝利ぞ!!」
葛尾城(かつらおじょう)に入城した武田勢は勝どきを上げます。
「覚えておれ、武田晴信ーッ」
村上義清は長尾景虎を頼って、越後に落ち延びていきます。
「追撃の手をゆるめるな!」
さらに武田信玄は小笠原長時の城をも攻め、次々と撃破。
「これはッ…叶わぬ。村上殿、自分だけ逃げるなんてズルい。私も越後へ逃げますぞ」
小笠原長時も村上義清と同じく、長尾景虎を頼って越後春日山城にのびます。
ここに武田信玄は信濃のほぼ全域を手に入れました。
天文11年(1542年)に信濃に侵攻してから実に11年。
諏訪頼重を下し、小笠原長時を下し、そして最期まで抵抗していた村上義清を破り、ようやく信濃のほぼ全域を手に入れたのでした
残るは北信濃川中島。そして、その彼方の越後には、「あの男」の姿がありました…
謙信、義によって立つ
葛尾城を落とされた村上義清は、わずかな手勢とともに越後に落ち延びました。同じく信玄に信濃を追われていた高梨政頼(たかなしまさより)らとともに、村上義清は、春日山城に長尾景虎…後の上杉謙信を訪ねます。
「どうか景虎殿、
武田晴信を打破るために、ご助力くだされ。なにとぞ」
(武田晴信か…。事は信濃一国の問題にあらじ。
川中島は越後への玄関口。ここを取られれば、
確実に越後にまで攻め込んでこよう…)
「わかりました。この長尾景虎、
ご助力いたします」
「おお!かたじけない…」
上杉憲政の亡命
天文21年(1552)関東管領上杉憲政は小田原城主・北条氏康と戦って敗れ、上野の平井城(群馬県藤岡市)を脱出。越後に亡命してきました。
「そなたは義に篤い男ときく。
落ち目の私でも…かくまってくれるか?」
「それはお困りでしょう。
越後でゆっくりお過ごしください」
「おお!」
感激する上杉憲政。そこには武田信玄に信濃を追われて亡命してきた村上義清・小笠原長時の姿もありました。
謙信は上杉憲政を、客人として篤くもてなします。このことが後に謙信の運命を大きく変えることになります。
次回「武田信玄と上杉謙信(七) 謙信、関東管領への道」に続きます。