本能寺の変

こんにちは。左大臣光永です。京都御苑の横の道を通ると、茂みの中からギャアッと恐竜のような声が聞こえることがあります。アオサギの声です。最近はあまり姿を見ませんが、声をきくと、ああ確かにいるなあと安心できます。

本日は「本能寺の変」について語ります。

天正10年(1582)6月2日、織田信長が家臣明智光秀に殺害された事件です。

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本能寺の変 直前の状況

天正10年(1582)5月29日。

信長はわずかな家来だけを連れて上洛し、いつも宿所にしていた四条坊門西洞院(しじょうぼうもんにしのとういん)あたり(現在の二条城の東)の本能寺に入ります。

天正10年(1582)6月 本能寺周辺
天正10年(1582)6月 本能寺周辺

本能寺跡
本能寺跡

本能寺跡
本能寺跡

備中高松にて毛利と交戦中の羽柴秀吉を援護して、自ら出馬するためでした。また信長は、明智光秀に備中への出陣を命じていました。

6月1日。勅使や公家たちが本能寺を訪れ、信長を歓迎します。

夜になると嫡男の信忠と、京都所司代・村井貞勝らが訪れ、内輪だけのゆるりとした席となりました。

さて本能寺の変直前の、有力大名たちはどんな状況だったか?

本能寺の変 直前の状況
本能寺の変 直前の状況

羽柴秀吉は備中で毛利攻めを行っていました。毛利の7つの城(境目七城(さかいめしちじょう))のうち6つを次々と落とし、最後の一つ、高松城を包囲していました。

高松城の周りに堰を造り、足守川を堰き止め、高松城を湖の中に浮かぶ浮島のようにして周囲と孤立させてしまいます。満々とたたえる水。その中にぽつんと浮かぶ高松城。

天正10年(1582)6月 備中高松城水攻め
天正10年(1582)6月 備中高松城水攻め

「な…なんということだ!」

本国から吉川元春・小早川隆景、つづいて毛利輝元も駈けつけますが、高松城の様子を見て絶句します。

とはいえ、秀吉側もうかつには手を出せない。双方ニラミ合いのまま、日数が経っていきます。

関東では滝川一益が上野厩橋(まやばし)城(現群馬県前橋市)に入り、北条・伊達をはじめ関東の諸将を信長に従わせるべく交渉に当たっていました。

越前では柴田勝家が、上杉方・魚津(うおづ)城(現富山県魚津市)を攻略していました。この魚津城さえ落とせば、上杉を撃破できる。ここ一番の勝負所でした。

信長の三男信孝(のぶたか)は、副将丹羽長秀・蜂屋頼隆を引き連れて、四国の長曾我部元親を討てと命じられ、今まさに瀬戸内海を渡らんと、大坂に集結していました。

本能寺の変 直前の状況
本能寺の変 直前の状況

徳川家康は、わずかな家来とともに、堺見物をしている最中でした。前の武田攻めの功績により、信長から接待を受けていたのです。

そして明智光秀は。

明智光秀 本能寺の変直前の動き

明智光秀の本能寺の変までの動きを細かく追ってみましょう。

明智光秀は安土城で家康への供応接待役を務めていましたが、「備中の羽柴秀吉を援護せよ」と信長からの命を受けて、

5月17日。安土城を出て近江坂本城(滋賀県大津市)に入ります。

5月26日。近江坂本城を出て、丹波の亀山城に入ります。亀山城は丹波における光秀の居城でした。

亀山城跡
亀山城跡

亀山城跡
亀山城跡

「なに!殿が本能寺に…?」

この丹波滞在中に、光秀は信長がわずかな供回りだけ連れて本能寺に入ったことを知った、…と思われます。

ふだんから野心を持っていたなら、この時点で、

「今なら、やれるかもしれない…」

そんな気持が起こったでしょうか。

しかも、信長の有力な武将たちは皆、京都を離れています。

羽柴秀吉は中国で毛利攻め。柴田勝家は越前に、滝川一益は関東にいました。織田信孝は丹羽長秀とともに四国攻めに向かう途中。徳川家康は堺見物の最中。

本能寺の変 直前の状況
本能寺の変 直前の状況

つまり、信長の近くに大勢力は光秀以外にいませんでした。

そして重要なことには。

有力武将たちはそれぞれ敵と相対し、カンタンには動けないということです。

もし信長が討たれた、さあ大変だ京都に引き返さなくては、となった時、

羽柴秀吉は毛利氏から追撃されるでしょう。

柴田勝家は上杉氏に、滝川一益は北条氏に、織田信孝・丹羽長秀は長曾我部氏に。

徳川家康だけは体が空いてましたが、軍勢を率いていないで物の数に入りません。

「今なら、やれる…」

光秀にとって、これ以上ない美味しい条件が揃っていました。

亀山城に入った翌日の5月27日。

光秀は愛宕山(京都市右京区)に登り、愛宕権現の社前でおみくじを二度、三度引きます。

「この一戦…勝てますか、否か」

そんなことを占いでもしたでしょうか。

翌28日。

光秀は愛宕山(あたごやま)威徳院(いとくいん)西坊(にしのぼう)で連歌の会を開きます。いわゆる「愛宕百韻」です。

その席で、光秀は発句を詠みました。

時は今 天が下知る 五月哉

ときは知るの「とき」は、室町時代の近江の名門・土岐氏のこと。光秀は土岐氏につらなる者でした。そして「天が下しる」は「天下を治める」ということ。今こそ、土岐氏の一族である私明智光秀が天下を治める、この五月であるという内容です。

あからさまな、謀反の表明でした。とはいえ光秀は将兵たちには自分の考えを明かさず、五人の宿老にのみ話をつけておきました。

6月1日夜、明智光秀は1万3千の兵を率いて丹波亀山城を出ます。

本能寺の変 明智光秀進撃ルート
本能寺の変 明智光秀進撃ルート

将兵たちは当然、備中に向けて進軍するものと思っていました。

丹波から備中に向かうには西へ向かい、三草山(兵庫県加東市)を越えるのがふつうです。

しかし光秀はそこには向かわず、亀山から東にルートを取ります。

「老の坂を越え、山崎から摂津に進撃する」

将兵たちにはそう説明しておきました。

6月1日夜。

軍勢は老の坂(京都府亀岡市から京都府西京区)に上ります。

本能寺の変 明智光秀進撃ルート
本能寺の変 明智光秀進撃ルート

ここから右進めば山崎を経て摂津。左に下れば京都です。光秀は左に下り、桂川を越えた所で夜が明けてきます。

そこで光秀はムチを上げ、

「わが敵は本能寺にあり」

頼山陽の詩「本能寺」によると、そう宣言したということです。

解説:左大臣光永