織田信長(三十三) 本能寺の変
本能寺の変
天正10年(1582)6月2日夜明け頃。
光秀は1万3千を率いて七条口から京都に入り、本能寺をびっしりと包囲します。
現 本能寺
「何事じゃ?」
信長はわずかな小姓衆とともに本能寺に宿泊していました。昨夜は嫡男の信忠と京都所司代・村井貞勝を招いて、ごく内輪の席を持ちました。信長は大いにくつろぎ、明け方になって床についた所でした。
天正10年(1582)6月 本能寺周辺
最初、さわぎが起こった時、信長も小姓衆も、下々の者のケンカと思いました。しかし、まったくそうではありませんでした。
ワアーーーー
ターン、ターーーン、タターーン
鬨の声と、銃撃の音が響きます。
「これは謀反か!いかなる者の企てぞ」
信長が森蘭丸に尋ねると、
「明智という者の仕業のようです」
「なに光秀が…!それならば、是非も無い」
是非も無い。
光秀が敵に回った以上、それがいい悪い言っても仕方ない。迎え撃つしかないと。
ばっ。
信長はみずから弓矢を取ると、
ぎりぎりぎり
びょう
ぎりぎりぎり
びょう
二つ三つと弓を取り換えながら矢を放ちますが、
どの弓も弦が切れてしまいます。
今度は槍を手に防ぎ戦いますが、
肘に槍傷を受けたので、退きます。
「殿!あああ、殿!」
あわてふためく女房たち。
「女供は急いで逃げよ!」
そう言って逃がしました。
すでに御殿には火がかけられ、近くまで炎が迫っていました。
信長は、敵に最期の姿を見せまいとしたのが、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹しました(介錯を誰がしたかは『信長公記』に無い)。
享年は「人間五十年」に一年足らぬ49でした。
本能寺には信長の供回り50人ばかりいましたが、全員、討ち死にしました。
現 本能寺
現 本能寺(信長公廟)
織田信忠の最期
信長の嫡男・信忠は、宿泊先の妙覚寺(京都市右京区)で村井貞勝父子三人から、明智光秀謀反の知らせを受けます。
現 妙覚寺
天正10年(1582)6月 妙覚寺
「こうしてはおれぬ!!」
すぐに信忠は本能寺に向かおうとしますが、すでに本能寺は焼け落ちたとの報告。
この上は明智軍が攻め寄せてくるのは時間の問題。
そこで妙覚寺から、より守りの固い二条御所に籠って明智軍を迎え撃ちます。
二条御所には東宮・誠仁親王(さねひとしんのう。正親町天皇の嫡男)と若宮・和仁王(かずひとおう。正親町天皇の嫡孫。後の後陽成天皇)がいましたが、信忠はここは戦場になりますからと説明して、お二人を内裏に逃がしました。
信忠は配下の武将に評定させます。
「京を逃れませ」
そう進言する者もいました。
しかし信忠は、
「これほどの謀反じゃ。敵は万が一にも我々を逃がすことはするまい。
雑兵の手にかかって死ぬのは無念じゃ。ここで腹を切ろう」
わあーーーわあーーーー
すぐに押し寄せる明智軍1万3千。
「おのれ明智光秀。思い知れ」
織田方、明智方、それぞれ斬り殺し、斬り殺されつ、我おとらじと戦ううちに、
明智方は二条御所の北隣の近衛前久邸の屋根に上り、屋根の上から矢と鉄砲を
ぱーーん、ぱはぱーーん
ひゅん、ひゅんひゅんひゅん
もともと多勢に無勢。加えて屋根の上からの攻撃で信忠方は次々と討たれていく。ついに明智方が二条御所に乱入し、火を放つと、信忠は
「私が腹を切ったら、遺体は縁の下に隠せ」
そう言って、家来の鎌田信介に介錯を命じて、自害しました。
享年26。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変です。
その後、羽柴秀吉は織田信長討たれるの報告を受けて、いち早く毛利と和睦。「中国大返し」と呼ばれる強行軍で京都に引き返し、山崎の合戦で明智光秀を撃破。清須会議で主導権を握ると、信長の後継者としての地位を固めます。
信長の天下一統への思いは、羽柴秀吉へと受け継がれていきます。
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