織田信長(十三) 五箇条の諚書

五箇条の諚書

「おのれ信長…つけあがりおって!」

永禄13年(1570)、二条城の足利義昭は怒り狂っていました。

足利義昭と織田信長の政権は当初、二人三脚でやってきましたが、すぐに破綻します。信長は義昭をロコツにコントロールしようとしました。

ついに信長は書状で足利義昭に通達してきます。

・各地の大名に何か通達する時は、信長を通せ。
・これまでの将軍の命令はすべて無効とし、あらためて作り直す。

そのほか五箇条の条件を義昭につきつけました。要するに、将軍の権限を大きく削る、信長が実権を握るのだという意思表示でした。これを五箇条の諚書といいます。

「もう許せぬ!各地の大名に御教書を送れ!
信長を討てと!」

軍事力で信長に勝てるはずはないんですが…義昭は余は足利将軍であるぞ。余が各地の大名に呼びかければ誰も彼もはせ参じるだろうと本気で信じていました。

信長 上洛をアピール

永禄13年(1570)2月、信長は再度上洛し、京都市民の盛大な歓迎の中、3月1日、将軍御所に参内し、その日の午後、朝廷にも参内します。

衣冠束帯で正装し、勅使・公卿を引き連れての参内でした。この時、信長は正六位相当の弾正忠で、昇殿も許されていない地下人に過ぎませんが、まるで征夷大将軍であるかのような豪勢なことでした。

「今後は信長が天下に号令するのである。信長は、エラいぞ」

ということを内外に示すアピールでした。おそらくあらかじめ歓迎するアルバイトのサクラを集めておいたものでしょう。

おそらくこの時、信長は正親町天皇より将軍代行権と、軍事力を行使する権限を授けられたものと思われます。

解説:左大臣光永