桶狭間の合戦は奇襲ではなかった

桶狭間の合戦
桶狭間の合戦

永禄3年(1560)5月12日。かねてから信長と敵対していた今川義元は2万5千の大軍を率いて駿府を出発(数は史料によって諸説あり)。

同17日、国境を越えて尾張沓懸城に入ります。

今川方の尾張における拠点は、鳴海城・大高城・沓懸城の三城。

これに対して信長は、鳴海城の北に丹下砦を築き水野帯刀(みずのたてわき)を置き、東に善照寺砦を築いて佐久間信盛を。南に中島砦を築いて梶川高秀を、黒末川の向こうには、鳴海城・大高城の連絡を絶つため、鷲津砦に織田秀敏を、丸根砦に佐久間盛重を置いて、今川義元を迎え撃たんとします。

桶狭間合戦 信長の砦
桶狭間合戦 信長の砦

信長方、わずかに3000。

今川方は2万5000。

数の勝負ではとても勝ち目が無さそうでした。

今川義元は朝比奈泰朝・松平元康(徳川家康)を沓懸城から先発させ、丸根砦・鷲津砦への攻撃と、大高城への兵糧補給を命じます。

今川別動隊の動き
今川別動隊の動き

18日夕刻。清州城の信長のもとに、丸根砦・鷲津砦からの使者が届きました。

「今川方は今夜、大高城へ兵糧を補給し、翌朝早くから丸根砦・鷲津砦を攻撃してくること確実です」

その夜、清洲城では。

今川義元を迎え撃つにあたって、どうするのか?

籠城するのか。

討って出るのか。

などという議論はまったくされず、世間話のみでした。

夜が更けると信長は家老衆に、

「もう遅いから帰ってよいぞ」

「は…しかし、今川が」

「いくら考えても答えは出ん。わしは寝るぞ」

ああ…情けない。あれが織田の当主か。

運の尽きる時は智慧の鏡も曇るというが、まさにそれだ。

家老たちは信長をバカにして、ヒソヒソ言い合いました。

夜明け方。

丸根砦・鷲津砦からの使者が信長のもとに届きました。

「丸根砦・鷲津砦はすでに、今川勢から攻撃を受けています!」

丸根砦・鷲津砦、今川別動隊の攻撃を受ける
丸根砦・鷲津砦、今川別動隊の攻撃を受ける

「うむ」

そこで信長はやおら立ち上がり、

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」

幸若舞の「敦盛」を舞い、

「法螺貝を吹け。武具をよこせ」

そして甲冑を身にまとい、

「湯づけ」

かっかっかっか。

立ったまま、湯づけをかきこむと、

ばっ

と兜をかぶり、出陣します。

従う小姓衆、わずか5人。雑兵200人ほど。

主従六騎、清洲城から熱田神宮まで、三里を一気に駈けます。

辰の刻(午前8時)。

熱田神宮内の上知我麻(かみちかま)神社(名古屋市熱田区)から南西の方角を見やると、煙が上がっているのが見えました。

「ああ…丸根砦も鷲津砦も、
今川勢に落とされてしまったのだ…」

動揺する兵士たち。しかし信長は。

「ぐずぐずするな」

熱田から上手の道を飛ばしに飛ばし、丹下砦に、ついで善照寺砦に入ると、陣容を整え兵を集結させます。

信長軍、熱田から丹下砦・善照砦へ移動
信長軍、熱田から丹下砦・善照砦へ移動

一方今川義元は。

桶狭間山に陣をしき、人馬に休息を与えていました。

そこへ、丸根砦・鷲津砦陥落の知らせが入ります。

「ほっほっほっ、これほど嬉しいことはない!」

そう言って今川義元は、北西に向かって謡を三番うたいました。

松平元康(徳川家康)は。

今川方の先陣をつとめ、大高城への兵糧補給という任務を為しとげたので、一息ついて、大高城に陣を取り、人馬を休めていました。

今川別動隊の動き
今川別動隊の動き

さて信長が善照寺砦に入った頃、信長方の武将・佐々隼人正(さっさ はやとのしょう)と千秋季忠(せんしゅう すえただ)が300騎ほどで先駆けして、桶狭間山北西で今川方前衛部隊と衝突しました。

結果は惨敗。両名とも戦死しました。信長はその様子を傍観して、特に救援を出しませんでした。

織田信長は、善照寺砦から、さらに黒末川をわたって中島砦を目指そうとしました。

信長軍、善照寺砦から中島砦へ
信長軍、善照寺砦から中島砦へ

しかし、家老衆が猛反対します。

「中島への道は両側が深田ですから、一列縦隊で進むしかありません。
小勢であることが、敵に筒抜けになってしまいます」

馬の轡に取りつき、家老衆は必死に信長を説得しますが。

「続け!」

断固として信長は、中島砦に向けて突き進みます。この時点で、従う者2000人ほど。

なんとか中島砦にたどりつくと、信長は息つく間もなく、東海道を南下し、今川義元の本陣を突かんとします。

またも家老衆が取りつき、およしくださいと必死に説得しますが、

「聞けい。今川勢は夜通し戦い疲れ切っている。
一方こちらは新手の兵である。敵が大勢だからといって恐れるな。
勝負の運は天にあるということを知らぬか。
この合戦に勝ちさえすれば、家の名誉、末代までの功名ぞ
ひたすら進め」

山際まで軍勢を寄せた時、

どざあーーーーーー

石か氷を投げつけるような激しい雨が降り出しました

北西を向いた今川勢の顔に雨が降りつけます。織田方には、背後を押される形となりました。

「進め、進めーーーっ」

どばしゃどばしゃどばしゃどばしゃ

雨の中、馬を走らせる織田信長以下の将兵たち。

やがて雨はやみます。

信長は槍を取り、大音声を上げて、

「かかれッ」

ワアーーーーッ

桶狭間の合戦
桶狭間の合戦

織田の大軍が今川義元の本陣に突進。槍、弓、刀、幟…算を乱しての大乱戦となりますが、今川の本陣は兵力を減らしており、しだいに追い詰められていきます。

「ひ、ひいいいーーっ」

ついに今川義元は朱塗りの輿を討ち捨てて、徒歩裸足にて逃げ出します。

『信長公記』によれば、

信長も下(おり)立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、いらつたる若もの共、乱れかかゝてしのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし火焔(かえん)をふらす。然りといへども、敵身方の武者、色は相まぎれず。爰(ここ)にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員(かず)を知らず。服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ倒伏す。毛利新介、義元を伐臥せ頸をとる。

ついに今川義元は、毛利新介良勝に討ち取られてしまいます。享年42。

信長は馬の先へ今川義元の首を掲げさせ、元来た道を引き返していきました。急いだのでまだ日のあるうちに清洲城につきました。翌日、首実検をします。

首の数3000。

後日、信長は清洲城の南2キロの熱田に通じる街道に、今川義元を供養する「今川塚」を建てました。

今川義元が腰にさしていた秘蔵の名刀、左文字の刀を信長は召し取って、大変気に入り、以後常に差すことにしました。この刀は現在、京都船岡山の建勲(たけいさお)神社に所蔵されています。建勲(たけいさお)神社は信長・信忠を祀る神社です。

解説:左大臣光永