織田信長(五) 織田信行の反乱

弘治2年(1556)4月、美濃の斎藤道三は息子義龍に討たれました。

「道三が討たれた!?…こうしてはおれぬ」

信長はすぐさま軍勢をまとめ、自らが殿をつとめて、尾張に帰還させます。しかし尾張では、同族の織田信安が斎藤義龍と組んで信長に敵対行動を取るようになりました。また信長の腹違いの兄・信広も斎藤義龍と同盟して信長に敵対します。信長は苦しい立場に立たされます。

そして弟の信行も。

「なに、道三が死んだ!そうかそうか!
今こそ兄を討つ機会ぞ。清州城を奪うのじゃ」

浮かれ喜び、信長討伐の計画を練る信行。

ここに、信行配下の柴田勝家という男がありました。

(信行さまの御器量では、とても信長さまにはかなわぬ)

そう判断してひそかに信長に次第を知らせました。

「そうか。信行が背くとな。
柴田勝家、よくぞ知らせてくれた」

その後信長は、病気と称して自宅に引きこもるようになります。いつまで経っても、出てきません。

「兄君が病気なのだから、見舞いぐらい行ったほうがいいでしょう」

信行は母と柴田勝家から薦められて、

「そうか。では様子見だけでも」

弘治3年(1557)11月2日。

織田信行は、清洲城北櫓天守次の間に通されます。

すると。

かぱーーん

背後の戸が開き、

「な!」

ずば、ずば、ずばっ

ぐぶううぅぅっ。

信行は斬られました。柴田勝家は信行の反乱を事前に知らせた功績により、後に越前国を下されました。

上洛

永禄2年(1559)、尾張をほぼ平定した信長は上洛して、将軍足利義輝に拝謁します。

「織田、信長か」

「はっ」

「しっかりやれ」

「ははーっ」

平伏する信長。しかしその内心では、

(滅びゆく室町幕府…だがそれとて、利用価値はある)

そんなことを考えていました。

それにしても信長一行のいでたちは派手でした。金銀飾りの太刀をはき、お供の侍80人を引き連れ、お供の侍にも金銀飾りの太刀をはかせていました。その後信長は奈良・堺を見物します。

堺では鉄砲と、茶の湯に興味を持ちました。

「ほう、これはよいものだな。ずず…」

などと茶をすすり、尾張に戻ってきました。

解説:左大臣光永