毛利元就(七) 吉田郡山城合戦
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家族
さて毛利元就と妻・妙玖は政略結婚ではありましたが、とても仲むつまじい夫婦でした。長子隆元、次男元春(幼名次郎)、三男隆景(幼名徳寿丸)、次女五龍といった、三男二女をもうけました。
毛利家
このうち、長男隆元が毛利の家督を継ぎ、次男元春が吉川家の養子となり吉川元春となり、三男隆景が小早川家の養子となって小早川隆景となり、毛利本家を両側から支える「毛利両川」という体制を作っていきます。
また二人の娘のうち長女ははやくに亡くなりますが、次女・五龍(本名不明)は、郡山城と隣接する五龍城(広島県安芸高田市)の宍戸元源(ししど もとよし)に嫁ぎました。
五龍城
毛利と宍戸はもともとは敵対していましたが、五龍によって、毛利と宍戸の間に友好関係が築かれました。また毛利元就と娘婿の宍戸元源(ししど もとよし)はとても気があい、寝所を共にして一晩中語り合ったという話が伝えられています。
宍戸元源は毛利両川体制において、三本の矢に次ぐ第四の矢として、毛利家を支える存在となっていきます。
また毛利元就と妻妙玖は、とても仲睦まじく、固い絆で結ばれていました。
「わしはな、幼い頃、家庭のぬくもりに恵まれなかった。父も母も幼くして亡くなりみなしごになった。兄とも長く離されていた。だからこそ、子供たちには家族の温かみというものを味わわせてやりたいのじゃ」
「あなた…」
そんなことも話したでしょうか。
後年、元就は長子・隆元へあてた手紙に、妙玖へのあつい想いを書き綴っています。
「最近はしきりに妙玖のことばかり思い出される。妙玖が生きていてくれたら…しかし妙玖はもうこの世にいない。語るべき相手もいないのだ…」
毛利隆元、大内文化にどっぷり
出雲では、隠居した尼子経久にかわって嫡孫の尼子晴久が勢いをのばしていました。晴久にはいずれ安芸にも、山口にも攻め寄せてくる勢いでした。こうした状況の中、毛利元就は大内傘下における自分の立場を明確に示す必要が出てきました。
もはや大内か、尼子か、その間に立ってフラフラしていることは認められないだろうと。そこで天文6年(1537)11月毛利元就は嫡男の太郎隆元を、山口に人質に送ります。太郎隆元この年15歳。
「よいか太郎、人質などと、卑屈になるでない。大内氏は古くから文化を奨励し京都から山口に流れ着いた文化人も多いのだ。山口で、しっかりと文武両道を、学んでくるのだぞ」
「はい、父上!」
「太郎、大内さまの御家来衆のおっしゃることによく従って、毛利の男として恥ずかしくないふるまいをしなければなりませんよ」
「はい、母上。行ってまいります」
人質、といっても、毛利隆元への待遇は最上のものでした。大内の家臣たちに丁重に迎えられた毛利隆元は、大蔵院(たいぞういん。山口市街北部)に入り、ここを宿所とします。
「ああ…なんと山口の町の美しいこと。…あの建物は?」
「瑠璃光寺の五重塔です」
「山口は文化が進んでおるのう」
「はい。かつては雪舟や宗祇といった方々も、山口を訪れました」
「すばらしいな。父の言う通り、山口には学ぶべきことがたくさんある」
大内氏当主・大内義隆は毛利隆元を客人として厚く接待します。自ら案内して能や犬追物を見せたり、山口の景勝の地を案内してまわることもありました。あるいは連歌・管弦を楽しみ、読書もやりたい放題でした。
そればかりか、毛利隆元は、大内氏家臣内藤氏の養女・尾崎局(おざきのつぼね)を嫁に迎えています。
隆元と尾崎局の間に生まれる男子幸鶴丸こそ、関ヶ原で西軍の大将を務める毛利輝元です。
毛利輝元像
「ああ何て山口は素晴らしい所なんだ!」
隆元は山口の大内文化にどっぷり浸りきります。山口に流れてきた京都風文化に染まりすぎたということですね。公家風になよなよしてしまった。だからお父さんの武を重んじる毛利元就からすると、ちょっとお前…それはいかんぞと、後年頭を抱えるほどまでになっています。
尼子晴久の安芸侵攻
天文9年(1540)9月
安芸の頭崎城と銀山(かねやま)城では、尼子方勢力が大内勢力に苦戦していました。
尼子晴久はこれを救おうと、兵を起こします。
まず最初の橋頭保として、尼子晴久は吉田郡山城に目をつけました。
郡山城北方の風越山(ふうえつざん)に陣を構え、この位置から吉田郡山城を攻撃します。
風越山
吉田郡山合戦
「焼き払え!」「奪え!」
ワアーーーッ
突然の敵襲に、驚く吉田郡山城。
「尼子が攻めてくるぞーー」
「早く、城内に入るのじゃ」
吉田郡山城を守る毛利元就は、吉田の農民や商人ら、男女8000人をかくまい、百万一心…皆が力をあわせれば何でもできるの精神で、民百姓に至るまで上から下まで力をあわせて、増援が到着するまで待ちます。
そこで尼子晴久は、
「吉田郡山城の抵抗は思いのほか激しい。
ここはやり方を変えるか」
9月23日。
尼子勢は風越山から青山と三塚山に陣を移します。
吉田郡山合戦
正面から吉田郡山城と向かい合う形です。
尼子晴久が三塚山・青山に陣を移すと、毛利元就はすかさず、手薄になった風越山に残っていた尼子の兵を攻めます。
その後も、毛利元就軍は尼子晴久軍を各地でゲリラ的に打ち破りました。
「うぬぬ…毛利元就め」
このあたりの地理を知り尽くした毛利元就軍の前に、尼子晴久軍は翻弄されます。
8月11日。
尼子晴久軍は総攻撃を仕掛けますが、元就が手勢を三手に分けて攻め寄せたことにより、尼子晴久軍は青山に撤退します。
そして12月3日。
「あっ、大内です!大内の旗です!」
「や…やっとか」
西条表の頭崎城で尼子方を相手に苦戦していた大内方の陶晴賢が、ようやく増援に駈けつけました。
これによって勝敗は決しました。
吉田郡山城の戦いは、毛利・大内連合軍の大勝利に終わりました。
年明けて天文10年(1541)正月。
毛利・大内連合軍は、敵将尼子久幸を討ち取る戦果を挙げました。尼子久幸は尼子晴久の大叔父で、経久の弟でしたが、安芸を攻めるのはまだ時期尚早と主張したために、甥の息子である晴久から「臆病野州」とののしられたいきさつがあり、この戦いには決死の思いで臨んでいました。
尼子久幸
「臆病野州と笑わば笑え。ののしりし者どもよ、わが最期の戦いを見よ」
ひゅんひゅんひゅん
どす、どすどすどすっ
と全身に矢を受け、絶命しました。
こうして尼子軍は戦意を失い、出雲に撤退していきました。天文9年(1540)9月以来、4ヶ月にわたった吉田郡山城合戦は終わりました。
次回「毛利元就(八) 出雲侵攻~第一次月山富田城合戦」に続きます。