毛利元就(一) 毛利元就登場
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元就誕生
毛利元就の毛利氏をさかのぼると鎌倉幕府の重臣・大江広元に行きつきます。大江広元は源頼朝の下で守護・地頭を設置するなど政治家として大きな働きをなしましたので、多くの所領を得ました。
その一つが相模毛利庄(神奈川県厚木市)です。大江広元は四男の季光にこの地を相続させます。そして季光が毛利の地名から毛利季光を名乗ったのが毛利氏のはじまりです。
その後、毛利氏は承久の乱に功績を立て、安芸吉田に所領を得ます。毛利季光は北条時頼が三浦氏を討伐した宝治合戦の時、三浦氏に味方していたため自刃しますが、その子経光が生き残り毛利の血は続いていきます。足利尊氏の頃、毛利氏は安芸吉田に移ってきました。
吉田郡山城
元就4歳の時、父弘元は嫡男の興元に領地を譲り、郡山城の4キロ西にある多治比(たじひ)の猿掛城(広島県安芸高田市)に隠居しました。元就も父弘元について猿掛城に入ります。
吉田郡山城から猿掛城へ
しかしその後、5歳の時に母が亡くなり、10歳で父弘元も亡くなります。翌年には兄興元が京都に出陣してしまいます。
(ああ…寂しい。どうして私には母も父もいないのか…兄上は、京でつつがなくお過ごしなのだろうか)
孤児となった毛利元就の救いとなったのが、父弘元の後妻である杉御方(すぎのおんかた)です。杉大方は血のつながらない元就をわが子のように可愛がりました。そして生涯再婚もせず、操をつらぬきました。
父に母に死に別れ、実の兄とも切り離されてしまった幼年期の毛利元就にとって、義理の母・杉御方に注がれる愛情は、何よりもしみじみと懐かしい、後年、思い出すものだったでしょう。
元就は永正8年(1511)15歳で元服します。元服といっても父弘元はすでに世になく、兄興元も京都に行っているので、誰を烏帽子親にしたかはわかりません。兄の指示により通字の「元」…毛利氏のルーツである大江広元の「元」の字と、占いで選んだ「就」をあわせて、「元就」としました。
元就の元服直後、兄興元が帰国します。
「ようやく元就も元服か。大きくなったものじゃ」
「兄上、お帰りなさいませ。これからは兄上を補佐して毛利家を盛り立てていくことに影ながらご助力いたします」
「ははは、お前も言うようになったな」
情勢
しかし、毛利家を取り巻く状況は笑っているどころではありませんでした。
北には出雲の守護代・尼子氏。西には、周防・長門を所有する有力守護大名・大内氏がそびえていました。また安芸国内にも武田などの小領主がひしめいており、毛利氏は常に周囲からおびやかされる、心細い立場でした。
安芸の状況"
兄・興元の死
ところで毛利元就の兄・毛利興元はたいへん酒好きでした。
「兄上、ちょっと飲みすぎではないですか」
「なんのこれしき。もっともっと酒もってこい」
とうとう酒の飲みすぎで永正13年(1516)、体を壊して亡くなってしまいました。元就にとって最後の肉親といえる興元が亡くなったのです!後年、元就はこのように述懐しています。
「たのみとしていた兄が19歳で早世して以後は、親も兄弟も、叔父も甥もなく、一人の肉親もなく、ただ独り身であった」
大変な孤独感があふれています。後年、毛利元就が家族のつながりをとても大切にした。毛利家の結束を家族経営のような形で強めようとしたのは、若い頃に味わった強烈な孤独感が元になっているようです。
酒について。
毛利元就は後年、孫の輝元にこのような書状を書き送っています。
「父や兄はみな若くして亡くなった。酒のせいだ。私が長寿健康をたもっているのは酒を飲まなかったせいである」
また家臣には
「少し酒をひかえよ」
一方で、酒を飲んで柱によりかかって愚痴をこぼした、という話も伝わっています。
初陣 有田中井手の戦い
毛利興元の没後、嫡男の幸松丸(こうまつまる)が毛利の家督を継ぎますが、わずかに二歳です。そこで後見人として、興元の弟である元就、および毛利興元夫人高橋氏の父である高橋久光が、幼い幸松丸を補佐して、実質的に毛利家をまとめていきます。
毛利幸松丸
「なに!毛利家は当主が倒れた!跡を継いた幸松丸は幼少。今こそ、うばわれた有田城をうばい返すのだ!」
有田城"
武田元繁は軍勢を率いて有田城に攻め寄せます。その勢4000。
「まずいことになった。武田元繁が攻め込んできたぞ」
「しかも武田方には、一人当千のツワモノ・熊谷元直がいる」
熊谷元直は源平合戦のとき平敦盛を討って、それを気に病んで出家したエピソードで知られる、熊谷次郎直実の末裔です。
「しかし、ひるんでもいられない。武田元繁を討ち、
断固、有田城を守り抜くのだ!広吉」
「ははっ」
召し出されたのは毛利元就の一の参謀・志道広吉(しじ ひろよし)でした。
「武田元繁は有田城を落とすとすぐに、吉田郡山城、猿掛城にも攻めよせてくるに決まっている。そうなる前に我々は先手を打ち、武田元繁の背後を突くべきと考えるが、どうだ」
「結構なことでございます。ただし、味方は小勢。敵は大勢。まずは今しばし様子を見るべきかと」
「そのような悠長は言っておれぬ。とにかく小勢でもやってみる」
「殿!」
この頃の毛利元就は後年の老獪な戦略家ではなく、21歳の血気盛んな若者に過ぎませんでした。
元就はわずか150名を率いて武田元繁の偵察に向かいます。
その頃、武田元繁は、熊谷元直に命じて、猿掛城下に押し寄せ、放火・狼藉を働いていました。
「殺せーーっ、攻め滅ぼせーーっ」
「うわーっ、武田の軍勢だ」
(なんということか…無垢の民を殺すとは、武田、許すまじ!)
「敵は大勢というが、勢の多寡など言っておられぬ。百姓らが殺されているではないか。
我に続け!武田元繁・熊谷元直を討ち取るのだ!」
ドガドガドガドガーー
突っ込んでいきます。
次回「毛利元就(二) 初陣」に続きます。