徳川家康(二十七) 家康薨去

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家康薨去

こうして家康は、発度(法律)という形で世の中の土台を整えると、8月24日、駿府に帰還します。

翌元和二年(1616)正月、家康は駿河で鷹狩をした後、気分が悪くなります。茶屋四郎次郎のすすめで食べた鯛の揚げ物に当たったとも言われています。

駿府に戻ると家康は病の床につきました。あらゆる薬師や僧を招いて薬を調合させ加持祈祷をさせますが、その甲斐もなく、家康の病は悪化していきました。そんな中、後水尾天皇は3月27日、家康のこれまでの功績を鑑み、太政大臣に昇進させます。

家康はそうとうに病が重くなっていましたが、天皇の御恩にかしこまり、病を押して勅使をお迎えして太政大臣を受けました。

4月1日、いよいよ死が近いことを悟った家康は、枕元に本多正純・天海・金地院崇伝の三名を呼んで遺言しました。

「わしが死んだら遺骸は久能山に納めて神にまつれ。葬礼は増上寺で行え。三河の大樹寺(だいじゅじ)に位牌を立てよ。一周忌が過ぎた頃、日光山に小さな堂を建ててわが霊を勧請せよ。関八州の鎮守となろう」

元和二年(1616)年4月17日、ついに息を引き取りました。享年75。天下万民の悲しみの声は巷に満ちました。薨去後、後水尾天皇より東照大権現の勅号と正一位の位が贈られました。

遺骸は遺言によって、はじめ駿河の久能山に埋葬され、一周忌を待って、日光山に遷されました。これが日光東照宮です。当初はごく簡素な建物でしたが、三代将軍家光の時、改築され(寛永の大造替)荘厳な寺院に生まれ変わります。

元禄2年(1689)4月。日光を訪れた松尾芭蕉は家康公の遺徳が、天下隅々まで行き及んでいるさまに感激し、こう語っています。

今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵 の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。

あらたふと青葉若葉の日の光

『おくのほそ道』

解説:左大臣光永