徳川家康(十八) 石田三成の挙兵
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会津出兵
慶長5年(1600)5月。
徳川家康は、豊臣五大老の一人・上杉景勝が領内で城郭を整備し、橋を作り、兵糧・武器を蓄えているのは謀反を企てているのだとしました。
「上杉景勝はすぐさま上洛し、弁明せよ」
そう言って家康は要求しましたが、上杉景勝は重臣直江兼続の意見を容れて、家康の要求をキッパリ断りました。この時、直江兼続が辛辣な言葉で家康の非を説いたのが、有名な「直江状」です。
家康は激怒し、上杉討伐の軍をおこします。
6月16日。
福島正則・黒田長政・細川忠興ら55800の軍勢が大坂城を出発。7月。江戸入り。
7月19日、嫡男の秀忠が、21日、家康自身が江戸を発って会津に向かいます。
鳥居元忠との別れ
家康は会津へ向かう途中、伏見城に立ち寄り、鳥居元忠らを激励しました。
「ワシが上杉討伐に向かったとなれば、三成は兵を起こすだろう。そうなれば伏見城は敵中に孤立する。だが会津攻めの最中、伏見城にこれ以上の兵力を割くことはできぬ。鉛弾が尽きたら、金銀をいぶしてでも弾にせよ一日でも長く、三成の攻撃を食い止めよ」
つまり、時間かせぎのために捨て石になれと。
ふつうなら逃げ出す所ですが、鳥居元忠のふだんからの徳川家康への忠勤ぶりを見ていた家来たちは、ここぞと死を覚悟しました。
石田三成 挙兵
慶長5年(1600)7月2日。家康の上杉討伐に加わろうとしていた越前敦賀城主・大谷吉継は近江垂井に入りました。ここで吉継は、20年来の友人である石田三成に招かれ、佐和山城を訪れます。
「三成が何の用だろう…胸騒ぎがする…」
佐和山城で対面する三成・吉継。
「よく来てくれた吉継。知っての通り、家康は上杉討伐で上方から離れている。
これこそ絶好の機会だ。この機に兵を挙げようと思う」
「三成…やはりその腹であったか。悪いことは言わぬ。
もう時機は逸しておる。そのような無謀なことはやめろ」
吉継は三成を止めますが、止めても聞かぬ三成であることは吉継はよく知っていました。吉継はこれが無謀な挙兵と知りながら、20年来の友の誘いを断ることはできず、結局、三成の話に乗りました。
大谷吉継は垂井から軍勢を引き返し、7月11日、佐和山城に入りました。
三成は毛利輝元・宇喜多秀家、および。三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)をも味方につけました。そして諸大名に家康との戦に参加するように呼びかけます。
7月17日、大坂城西の丸の徳川留守居役・佐野綱正(さのつなまさ)を追い出し、毛利輝元・秀就父子がここに入ります。
また三成は、家康に従って上杉討伐に向かっている諸将の妻子を人質として大坂城に収容しました。この時細川忠興夫人・ガラシャだけはこれを拒み、自殺しています。
同じ日、三奉行の名で連判状が出されます。
「家康は、故太閤の取り決めを破り、政権を思うがままに私してきた。
諸国の大名・小名よ!今こそ家康を討ち、秀頼公への忠義を明らかにすべし」
伏見城攻め
天下分け目の関ヶ原合戦。
その前哨戦となったのが、慶長5年(1600)7月の伏見城の戦いです。
慶長5年(1600)7月18日、毛利輝元の名で東軍方・伏見城に開城要求がつきつけられます。
「そのような要求には従えない」
城主・鳥居元忠は即座にこれを拒否。
翌19日、伏見城への攻撃が始まります。
西軍方は宇喜多秀家を総大将に、小早川秀秋を副大将に、島津義弘、吉川広家、毛利秀元、小西行長、鍋島勝茂、長曾我部盛親ら総勢四万。
一方、伏見城に立てこもるのは城主・鳥居元忠以下のわずか1800。
力の差は歴然としていました。
しかし、鳥居元忠の抵抗思いのほかに激しく、伏見城は何日かかっても落ちないです。
鳥居元忠の家臣たちが城を枕に討ち死にの覚悟を決めているのに対し、西軍方は、西軍につこうかどうしようか決め兼ねているものが多かったためです。
「ええい、何を手こずっているのか」
7月29日。シビレを切らした石田三成が自ら出馬。伏見城に激しい攻撃を加えます。
8月1日。
13日間の攻防戦の末にようやく伏見城は落ちます。
城主・鳥居元忠は自刃。
元忠配下の諸将も次々と自刃。伏見城の畳は血に染まりました。
(関ヶ原で勝利した後、家康は鳥居元忠らの忠義を記念して、江戸城の伏見櫓の階上に伏見城の血染めの畳を置きました。明治維新による江戸城明け渡しの後、血染めの畳は栃木県精忠神社に納められ、供養されました。
床板は「血天井」として京都養源院はじめ宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治の興聖寺に伝えられ、現在も見ることができます)
小山評定
徳川家康は、7月2日に江戸に到着し、19日間滞在しています。こうまで動かなかったのは、大名たちが本当に家康につくか、それとも裏切って三成に走るか、油断できなかったため、状況を伺っていたのでした。7月19日、増田長盛から「三成挙兵」の知らせが届けられます。
「やっとか…」
とでも言ったでしょうか。家康は7月21日江戸を出発。7月24日下野小山(しもつけおやま。栃木県小山市)に入りました。
翌25日。
家康は小山の陣所に諸将を集め軍議を開きます。
いわゆる「小山評定」です。ただし小山評定の実否については近年疑問が持たれています。
家康は諸将に西国の戦況を説明した後、
「おのおの方、大坂に妻子を人質に取られ、さぞご心配でござろう。
石田三成や宇喜多秀家につこうという者があれば、すぐに大坂へ向かわれよ。
拙者はそれを恨みには思いませぬ」
ざわざわっ
動揺する諸将。
どうしようか…。
一瞬の躊躇。
その時、福島正則が、
「余人は知らず。某は妻子を犠牲にしても内府殿に御助力いたす。
そもそも三成は、秀頼公のためと言ってはいるが、
秀頼公はいまだ幼少の御身。何もご存じないのでありましょう。
石田三成こそ、秀頼公をたぶらかす佞臣です」
この言葉がきっかけとなり、そうじゃ、その通りじゃと、誰も彼も家康に協力することになりました。
しかし会津攻めを切り上げて西へ引き返すとなると、上杉景勝の追撃が懸念されました。
そこで家康は次男結城秀康を宇都宮城に残し、伊達政宗・最上義光を上杉景勝への牽制とします。そうしておいて7月26日、諸将の軍勢を西に向かわせ、8月5日、自身が江戸城に帰還しました。
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