徳川家康(九) 本能寺の変・伊賀越の難

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家康への接待

天正10年(1582)春、織田信長は武田勝頼はじめ武田一門を亡ぼし、本懐を遂げました。何といってもその第一の功労者は徳川家康と、穴山梅雪でした。

そこで信長は徳川家康には三河・遠江に加えて駿河を与え、穴山梅雪には本領安堵…もともとの領土をそのまま維持することを許しました。

これに対するお礼として、徳川家康・穴山梅雪が安土に来ることとなりました。

「二人を丁重に接待しなければならぬ」

信長はそう言って街道を整えさせ、二人の宿泊地ごとに大名を派遣して、心づくしの接待をさせます。

5月14日。徳川家康・穴山梅雪は近江の番場(ばんば)で丹羽長秀から接待を受けます。

翌15日。安土到着。信長は明智光秀に接待役を命じました。

「家康殿、長旅ご苦労でした。
ゆるりと寛がれよ」

「はっ…恐縮です」

家康は三日間にわたり、光秀からの接待を受けました。

本能寺の変・伊賀超えの難

信長が武田氏滅亡後の戦後処理をすませ、甲府を出発したのが4月10日。事件はそれからわずか二ヶ月後のことでした。

天正10年(1582)6月2日。本能寺にて信長が家臣明智光秀に討たれました。本能寺の変です。

事件が起こった時、家康はどうしていたか?

数日前から穴山梅雪とともに信長に招かれて上京し、京都・大坂・奈良・堺と畿内各国を見物していました。堺では茶の湯や、酒宴を楽しみました。

6月2日、堺にいた家康のもとに信長討たれるの報が茶屋四郎次郎によりもたらされます。

「何ということだ!」

家康は遊んでるところだったので、わずかな供回りを従えているに過ぎません。うかうかしているとわが身が危ない。とにかく本国に戻らねば!家康はその日のうちに堺を出発。山城の宇治田原へ。ついでついで南近江路を通って宇治田原から近江の信楽へ至ります。

伊賀越の難
伊賀越の難

「殿、こちらへ…」

この時、家康を宇治田原から信楽まで案内したのが、宇治茶で有名な上林家の上林久茂(かんばやし ひさもち)です。後に上林久茂はこの時の功績により宇治の代官に取り立てられます。また上林一族は宇治茶のにない手として大いに栄えることになります。

6月3日。信楽着。

4日。甲賀へ。ついで伊賀の山中を超えて伊勢に抜けます。

「殿、私におまかせを」
「うむ。頼むぞ半蔵」

この時、茶屋四郎次郎とともに家康を道案内したのが服部正成(まさしげ)…通称服部半蔵です。

こうして伊賀・伊勢路を経て、伊勢国白子(三重県鈴鹿市)で船に乗り込みます。

「た、助かった…」

船に乗った家康はよほど安心したんでしょう。蜷(にな。巻貝)の塩辛をおかずに、ご飯を三杯もかきこんだと伝えられます。

同6月4日、船路にて三河の大浜に着き、岡崎に帰還しました。

伊賀越の難
伊賀越の難

以上が家康三大危機の一つに数えられる「伊賀越の難」です。

一方の穴山梅雪は宇治田原から甲賀に向かう途中、土民の襲撃を受けて殺されてしまいました。

家康が岡崎に帰還した6月4日、備中高松では羽柴秀吉が毛利方と講和を結んでいました。翌々日の6月6日から秀吉は「中国大返し」と呼ばれた強行軍で都に引き返し、6月13日、山崎の戦いで明智光秀を滅ぼします。

光秀は落ち延びていく途中、農民に殺されました。殺された場所は伏見の小栗栖とも醍醐とも山科とも伝わっています。

解説:左大臣光永