徳川家康(一) 松平氏の系譜

松平氏

徳川家康の松平氏は、もともと三河松平郷の地方領主でした。松平郷は山間の巴川中流域にあり、交通の便の悪い場所です。室町時代の初めころ、この三河松平郷に松平太郎左衛門信重という領主がありました。

そこへ、得河有親・親氏という父子が流れ着きました。

親氏は松平郷に住み着き、松平太郎左衛門信重の養子になりました。

以後、親氏→泰親→信光→親忠→長親→信忠→清康→広忠と続いて、家康に至ります。

ただし、信光以前の系図はあやしいものです。新田源氏の末裔と言われていますが、それは後年、家康のハクをつけるために創作されたことで、まったく信じるに値しません。

親氏から数えて3代目の信光の時、はじめて松平氏は平野部に打って出ました。応永28年(1421)西三河の岩津城占領。以後、松平氏は50年間この岩津城を拠点とします。

応仁元年(1467)から始まる応仁の乱はのべ11年間にわたり京都を破壊し尽くしたのみならず、周囲の大名や武士たちも巻き込んで、西軍・東軍の戦いは全国規模に及びました。

応仁の乱がはじまって4年めの文明三年(1471)、松平信光は東軍方として西軍の三河安祥城(愛知県安城市)を攻略し、ほぼ無血状態で落としました。

後にこの安祥の地から、徳川家康につながる安祥松平氏が生まれることとなります。

三河略地図
三河略地図

松平清康の時代

その後、松平家は親忠→長親→信忠を経て、家康の祖父にあたる清康の代に入ります。

大栄3年(1523)清康が家督を継いだ時、13歳でした。

13歳で家を取り仕切ることはできませんので、一族の中で信任を得た叔父の松平信定が安祥松平氏の政治を取り仕切ることとなります。当主の清康は山中城(愛知県岡崎市)に飛ばされてしまいます。ていのいい追い出しでした。しかし、清康は転んでもタダでは起きませんでした。

清康は安祥松平氏と長く敵対関係にあった岡崎松平氏の婿養子となり、和睦してしまいます。そして岡崎松平氏の城であった岡崎の地を譲られ、後に自ら岡崎に城を築きます。以後、松平氏は岡崎城を拠点として活動していくこととなります。

松平清康は背は低く目は鋭く武勇に優れていることはもちろん慈悲の心もありました。それで家臣たちは清康さまのためならばと、わが身を顧みず働きました。そのかいあって、清康は東に西に、三河国内の敵対勢力を一掃し、家督を継いで10年もしないうちにほぼ三河一国を手中におさめました。

とはいえ、安祥城には依然として叔父の松平信定がいすわっており、松平家は分裂したままでした。若き当主・清康にとって悩みの種でした。そんな中。

守山崩れ

天文4年(1535)12月、松平清康は1000余騎を率いて隣国・尾張に侵攻。守山(愛知県名古屋市守山区)に着陣します。この頃、尾張では織田信秀と織田藤左衛門尉が対立していました。松平清康はこの両者のうち、織田藤左衛門尉と通じており、そのため、織田信秀を討つための出陣でした(諸説あり)。

守山崩れ
守山崩れ

この時、同じ松平一族として松平清康の叔父の松平信定にも招集をかけましたが、松平信定は病気と称して三河上野城(愛知県豊田市)に引き籠もっていました。

「ぬぬぬ…当主に従わぬだと」

松平清康と松平定信の対立は、依然、続いていたのでした。

「まあよい。いずれ織田信秀を討ってから決着をつけてやる」

ところが、その機会は訪れませんでした。

守山城に着陣したその日、松平清康は家臣阿部大蔵の息子である弥七郎によって殺されてしまいました。どうやら阿部大蔵が敵方に通じていると清康が疑っていると思い込んだ弥七郎が、夜中に馬が騒いだのを聴いて、ついに父が討たれるのだ。そう思って背後から一気に清康を斬り殺したようです。

この時、弥七郎が使った刀が「村正」だったと伝えられます。この村正の刀はこの後も松平氏に繰り返し災いもたらすことになります。

とにかく清康は死にました。25歳でした。これで織田信秀攻撃はパーになってしまいました。この事件を「守山崩れ」といいます。家康生誕7年前の出来事でした。

後に大久保彦左衛門は「もし清康が三十歳まで生きていたら、天下はたやすく平定できたであろう」と述べています。器量の大きな人物だったようです。

松平広忠

守山崩れの後、岡崎城には松平信定が入ります。清康嫡男・千松丸は岡崎城を追われ、以後各地を転々とします。まず伊勢の神戸(かんべ)に、ついで今川氏の助力を頼んで遠州懸塚に。さらに三河の形原(かたのはら)・茂呂(もろ)・吉田へ。

それは清康を殺した弥七郎の父・阿部大蔵が、息子の行いを恥じて千松丸に協力してくれたことや、各地の譜代の家臣たちの協力あってのことでした。ついに天文6年(1537)6月、松平信定は和談を受け入れ、千松丸は岡崎城に帰還。以後、千松丸に従うこととなりました。

「千松丸さま、ようやくのご帰還、喜ばしゅうございます」
「うむ、帰ってきたぞ…」

喜び涙し、千松丸を迎える松平家臣団。

長きにわたった松平同士の争いは、こうして千松丸のもと、ようやく収まったのでした。直後に千松丸は元服し、広忠と名乗ります。

天文10年(1541)、広忠は尾張国の国衆・水野忠政の娘お大を妻として迎え、翌天文11年(1542)12月26日、男児が生まれます。幼名竹千代。後の徳川家康です。

お大の方

さて広忠は松平宗家の下、松平家をいちおう統一したわけですが…父清康の代から続く織田信秀との対立が、ますます深まっていきました。

広忠が水野忠政の娘・お大の方を妻に迎えたのは水野忠政が織田信秀と敵対していたから敵の敵は味方ということで、水野忠政が松平氏の味方になることを期待してのことでした。

於大の方
於大の方

しかし忠政が死ぬと、家督を継いだお大の兄・信元はそれまでの路線を変更して織田信秀と同盟を結んでしまいます。

これにより松平家と水野家の関係は断たれました。

「もはやお前を置いておくわけにいかぬ」

広忠は妻お大の方を離縁します。時にお大17歳。竹千代3歳でした。

「母上、母上!」
「竹千代、強く立派に生きるのですよ。母はきっとあなたを見守っています…」

岡崎から20人ばかりの武士に護送され、お大の方を乗せた興は水野家の城・刈谷城に向かいました。

刈谷城
刈谷城

刈谷城まであと数キロの所まで来た時、お大の方はお供の武士たちに言いました。

「ここで帰ってください」
「はっ…いや、しかしそれは…」

「私の兄信元は、あなた方を殺すでしょう。私は離縁されても竹千代がいる限り、岡崎の人を他人とは思いません。そして竹千代と兄は親類同士なのですから、きっといつか和睦するでしょう。でももし今、あなた方が斬られてしまえば、和睦は難しくなってしまいます」

これを聞いて武士たちは、なんと思慮深いお考えだと、近くの農民に輿を担がせて、自分たちは岡崎に帰還しました。後世の人はお大をたたえて、「さすがは海道一の弓取りの母」とそう言って感心しました。

解説:左大臣光永


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