豊臣秀吉(八) 毛利攻め

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木津川口の海戦

信長は中国の毛利氏とは特別、敵対関係にありませんでした。しかし、天正4年(1576)情況が一変します。長年にわたって信長と敵対してきた石山本願寺に毛利氏が味方し、兵糧を届けようとしたのです。

それを阻止しようとした織田方・村上水軍と海戦になります。

天正4年(1576)7月13日。第一次木津川口の戦いです。

ドーーーン、ドーーーン

ぐはああああぁぁぁぁぁぁぁ

ぎゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

始まってみると毛利の村上水軍は数においても装備においても遥かに勝り、次々と織田方の和泉水軍を打ち破っていきます。

ドカーーン

ボカーーーン

ごおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーー

あちらでも、こちらでも、燃え上がる和泉水軍の船。

完全な、織田方惨敗でした。

村上水軍は本願寺に食料を運び入れた後、ゆうゆうと引き上げていきました。

毛利氏 動く

「木津川口で織田の水軍を撃破!!」

「やった!ついにやった!」

備中鞆で知らせを受けた足利義昭は小躍りして喜びます。さっそく越後春日山城に御内書を送り、

「今こそ上杉と毛利と、東西両方から織田を討ち、私を帰洛させてくれ」

と呼びかけます。

毛利氏にとっても今回の織田軍敗れるの報告は、気持が動くに足るものでした。

「これは…信長はそれほど恐るべき相手ではないのではないか。
いけるのではないか」

毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利両川は、毛利元就の遺言により天下を狙う野心は持っていませんでした。しかし、一番の障害である信長が、これほど脆いのであれば、やれるのではないか?むしろこのまま座して何もしないでいれば、近いうちに信長が全国制覇の野心によって、毛利を潰しにかかってくる。

その前に、こちらから攻め込んでやれと、決意が固まったのがこの頃かもしれません。

中国戦役の始まり

信長にとって、毛利が歯向かってくるのは願ってもないことでした。長年にわたり、信長は注意深く毛利討伐の口実を探していました。

しかも、信長に追放された足利義昭は、毛利氏を頼って中国地方に亡命していました。これは織田と毛利の間に交わされた約定違反でした。毛利を討つための条件は完全に整いました。

ここに至り信長は、

「毛利を討つ。猿!」

「ははっ」

「お前を中国攻めの大将軍に任じる。無事中国を平定したあかつきには…
恩賞は思いのままぞ」

「いいえ殿、中国はおろか、九州までも平定してみませす。その後は大船を作って、朝鮮・明国までも征伐しましょう。そこまでやって初めて恩賞をください」」

秀吉はそう言ったと伝えられます(『名将言行録』)。

こうして中国戦役の火ぶたは切って落とされました。

黒田官兵衛

天正5年(1577)10月、秀吉は姫路城に入ります。

「官兵衛、元気にしておったか」
「はっ、某をお取立ていただいた御恩、一日たりとも忘れておりません」

姫路城城代・黒田官兵衛はこころよく秀吉に本丸を譲り、みずからは二の丸に移ります。以後、秀吉の参謀となります。

もともと官兵衛は織田信長を高く評価し、何とか信長に仕えたいと思ってました。そこで官兵衛は主君・小寺政職(こでらまさもと)に信長に仕えるよう説得し、さらに秀吉の仲介で、岐阜城にて信長に謁見。名刀「へし切長谷部(へしきりはせべ)」を授かっていました。

今回、官兵衛が秀吉に姫路城を快く提供したのは、そういった背景があってのことでした。

解説:左大臣光永

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