清少納言と紫式部

こんにちは。左大臣光永です。

隣で新築工事が始まったので、マンションができたらイヤだなあ、比叡山も如意ヶ岳も見えなくなったらイヤだなあと思っていたら、2階建ての民家だったので、これまで通り比叡山も如意ヶ岳も見えることがわかって、よかったです。

本日は「清少納言と紫式部」ということでお話します。

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一条朝をいろどった女流文学者といえば、誰もが清少納言と紫式部の名を挙げるでしょう。しかしその有名さのわりには、二人がどんな生涯を送ったかは、ほとんど伝わっていません。

清少納言

清少納言は清原元輔の子として康保3年(966)頃生まれました。本名は不明ですが一説には「諾子(なぎこ)」だったといわれます。

「清少納言」は後に中宮定子のもとに宮仕えする際に定子から授けられた女房名です。「清」は清原氏。「少納言」は親類の誰かが少納言だったためと思われます。

清原氏は代々の和歌や漢文の家系でした。

清原元輔、曽祖父(祖父という説も)清原深養父、そして清少納言自身も中古三十六歌仙に数えられ、三人とも『小倉百人一首』に歌が採られています。

清原元輔は『後撰和歌集』の選者として「梨壷の五人」の一人に数えられ、また歌人として知られる源順(みなもとのしたごう)、大中臣能宣らと交流がありました。清少納言はそういう文学的にめぐまれた空気の中、利発で明るい少女として成長していきました。

父清原元輔は晩年、肥後守として現地に赴任し、正暦元年(990)6月に亡くなります。清少納言がまだ宮仕えする前です。娘が宮仕えすることも『枕草子』を書くことも知らずに亡くなったわけです。

二度の結婚

天元4年(981)頃、名門橘氏の嫡男橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し翌年、長男の則長を生みます。橘則光は武勇にすぐれた人物だったようで『宇治拾遺物語』に盗賊三人に囲まれ逆にやつけた話が採られています。しかし清少納言とはそりがあわず、ほどなく離婚します。

ついで正暦2年(991)頃、清少納言は父ほど年の離れた摂津守 藤原棟世(せっつのかみ ふじわらのむねよ)と再婚し、後年上東門院彰子に仕え女流歌人として知られることになる小馬命婦(こまのみょうぶ)をもうけます。

正暦4年(993年)頃、藤原道隆の娘で一条天皇に嫁いでいた中宮定子のもとに女房として仕えます(正確な時期・宮仕えするようになった経緯は不明)。この時中宮定子から「清少納言」の女房名を授けられます。

この年中宮定子18歳。清少納言28歳くらい。清少納言はこの10歳年下の女主人・定子を『枕草子』の中で絶賛しています。

中宮さまは素晴らしい、美しい、優しい、気品がある、教養がある、太陽のように絶賛しています。

中宮定子のサロン

藤原道隆の娘定子は永祚2年(990)、一条天皇の中宮となりました。定子のもとには多くの女房が集まり文芸サロンの様相を呈していました。その中でも清少納言は一番の花形になっていきます。

明るく利発な清少納言はまわりから好かれました。藤原実方、藤原行成、源宣方といった公卿・殿上人と交流を持ち、特に藤原実方とは恋愛関係にあったとも言われます(『枕草子』には藤原実方との恋愛関係を匂わせる描写がありますが、はっきりしたことはわかりません)。

香炉峰の雪

清少納言は豊かな教養を注意深く隠すのではなく、むしろ天真爛漫に、表にあらわす女性でした。

『枕草子』に見える香炉峰の雪の話(284段)は有名です。

ある雪が降り積もった日、中宮定子は清少納言におっしゃいました。「少納言、香炉峰の雪はどうであろうか」。

そこで清少納言はスッと簾をかかげます。白楽天の詩にある「香爐峰の雪は簾をかかげてみる 」をふまえたものでした。

中宮定子はにっこりお笑いになりました。まわりの女房たちもさすがねえと清少納言を誉めそやしました。

悪くすると自慢とも取られかねない話ですが、『枕草子』には中宮さまに微笑まれたことも、まわりの女房たちに絶賛されたことも、天真爛漫な筆運びで描かれています。

定子の没落と死

しかし幸福な時代は長く続きませんでした。清少納言が定子のもとに宮仕えをはじめた2年後の正暦6年(995)、定子の父藤原道隆が亡くなり、かわって道隆の弟道長が台頭します。

定子と彰子
【定子と彰子】

藤原道長は長女の彰子を強引に一条天皇の中宮とし、中宮定子を皇后定子として、一人の天皇に二人のお后がいる「一帝二后」の状態となります。また定子の兄弟伊周(これちか)・隆家らはあやまって花山法皇を矢で射た事件(長徳の変)から失脚し、伊周は大宰府に、隆家は出雲に流されます。

それまで華やかだった定子のサロンも廃れていきます。権力者藤原道長をおそれて一人去り二人去り…しかしその中にあって、清少納言はひたすら一途に定子に仕え続けました。

そんな清少納言に、心無い噂が立ちます。敵である藤原道長方に内通していると。清少納言はこの噂によほど心を痛めたのか、宮中を退いて隠棲しています。そしてこの頃に『枕草子』を書き始めたと見られています。

その後定子からの呼びかけに答えて清少納言はふたたび宮中に上がりますが、藤原道長からの圧力は日に日に増していきました。ついに定子は出家して尼になり、心身ともに疲れ果て、長保2年(1001)12月、24歳の若さで没しました。

『枕草子』は中宮定子の没落や死については一切語りません。ただ定子のサロンが華やに輝いていた時代のことだけを、楽しく美しく華やかに描いています。

なので『枕草子』を数章でも読んでみると、なんて楽しいんだ、きらびやかなんだと頬がほころぶと思いますが、その楽しい宴はわずか数年の出来事で、その先には暗黒の巷が待ち受けていたことを考えると、なおさら『枕草子』という作品が感慨深く思えます。

おそらく清少納言は定子の一番輝いていた時代、そして自分にとっても一番楽しかった黄金時代だけを切り取って、後世に伝えようとしたのではないでしょうか。

定子没後の清少納言について、詳しいことは伝わっていません。

(まず夫摂津守藤原棟世(ふじわらのむねよ)を頼って摂津へ下り、晩年は東山の月輪寺(がつりんじ つきのわでら)そばの月輪山荘に隠棲したとされます。現在、東山泉涌寺の境内に歌碑があります。

紫式部

一方、紫式部は、清少納言にくらべると、かなり細かい経歴がわかっています。

紫式部。生没年未詳。本名未詳。平安時代中期、一条天皇の時代に活躍した女流文学者。『源氏物語』の作者として知られます。家集『紫式部集』、日記『紫式部日記』があります。

父は学者であり歌人である藤原為時(ふじわらのためとき)。母は藤原為信(ふじわらのためのぶ)の女。

生前の女房名は「藤原」から「藤式部(とうしきぶ)」であり、「紫式部」は死後の呼び方と見られています。

「紫」は『源氏物語』のヒロイン紫の上から「式部」は父の役職名「式部丞(しきぶのじょう)」に由来します。

幼くして母と姉を失い、弟(もしくは兄)の惟規(のぶのり)とともに父のもとで育てられます。

ある時、弟の惟規が父為時について『史記』を勉強していました。横では姉の式部が聞くともなく聞いていました。

「さあ繰り返すのだ。『力は山を抜き気は世を』」…
「『力は…』…ええと…」

「なんじゃお前は、ちっとも勉強に身が入らないなあ」

ところが横で聞いていた式部は、

「●?●?●?」

よどみなく答えます。

「ああ…お前が男子であったなら」

父為時はそう言って悔しがりました。少女時代の式部の聡明さを伝える逸話です。

長徳2年(996)、越前守となった父に従って越前に下り、翌々年帰京。父の同僚の山城守 藤原宣孝(やましろのかみ ふじわらののぶたか)と結婚し翌年一女・藤原賢子(ふじわらのかたいこ)を生みます。百人一首にも採られている後の大弐三位です。

しかし結婚生活は長く続かず、2年目の長保3年(1001)、夫宣孝は亡くなります。この年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めたと見られ、その評判によってか?寛弘2年(1005)もしくは寛弘3年(1006)一条天皇中宮彰子のもとに出仕することになります。

内にこもりがちで人と打ち解けない式部は、はじめての宮仕えにとまどいました。

ある時一条天皇が式部が『日本書紀』を読んでいることを知り感心されます。その話が宮中に広まってしまい、式部はまわりの女房たちから『日本紀の御局(にほんぎのみつぼね)』とあだ名されるようになりました。

しかし式部自身はそのようにもてはやされることを嫌い、「漢字の一という字すら書けないふりをしていた」といいます。

このあたり、自分の文才をはつらつと表に出した清少納言とは対照的です。

『紫式部日記』には、式部が先輩の女房から「どうして漢字の書など読むのですか。昔はお経でさえ女は読まなかったものです」とたしなめられる場面があります。

女は漢字など読むべきではない。下手に才気ばしって男の真似なんかして漢字の書物を読んでいると、ロクなことにならないという根強い考えがありました。

途中5年ほど中断をはさみながらも中宮彰子に仕え続けましたが、その後の消息は不明です。

「清少納言と紫式部が出会っていたら?」

誰もが妄想するところですが、清少納言が宮中を去ったのが長保3年(1001年)ごろ。それから4、5年を隔てた寛弘2年(1005)ごろ紫式部が出仕しています。

おそらく二人が直接顔をあわすことはなかったと思われます。清少納言が紫式部を評した文章は、今のところ発見されていません。

(紫式部の墓は島津製作所紫野工場の隣に小野篁の墓と並んで立っています(京都市北区堀川北大路通下ル西)。墓の西側には、紫式部が晩年を過ごしたという雲林院の跡があります)

というわけで、

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この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば。

娘たちを次々と天皇の后として嫁がせ、天皇家の外戚という立場から権力を握った藤原道長。

ことに長女・一条天皇中宮彰子(しょうし)のサロンは大いに賑わい、きらびやかな王朝文化が花開きました。

『源氏物語絵巻』や『紫式部日記絵巻』に描かれた、絢爛豪華な平安王朝文化の世界。

それは藤原道長のゆたかな経済力抜きには、生まれ得ないものでした。

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解説:左大臣光永

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