最澄と空海(三) 空海の帰還

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空海 唐で学ぶ

最澄が天台山で学んでいたころ、
空海は、長安の青龍寺(しょうりゅうじ)で、
当時の密教の第一人者であった恵果(けいか)に
学んでいました。

恵果ははじめ空海を一目見るなり、
「これこそ、私が探し求めていた弟子だ」と感激しました。

我れ先より
汝が来らんことを知り、
相待つこと久しかりつ。
今日相見ゆ、
大(はなた)だ好し、大だ好し

密教とは、文字通り秘密の教え…
言葉で表現できる「顕教(けんぎょう)」に対して、
言葉で表現できない教えを言います。

もちろん経典はありますが、文字による学習にたよらず、
真言(マントラ)とよばれるサンスクリット語を唱えたり、
曼荼羅とよばれる図を儀式に用いたり、護摩をたくなど、
言葉以外の道を通しても、悟りを得ようとします。

宇宙の根本たる大日如来を本尊とし、
あらゆる仏や菩薩は、大日如来のそれぞれの性質の現れと見ます。
真言宗の寺が大日如来でなく薬師如来や弥勒菩薩など、
いろいろなものを本尊としているのは、そのためです。

手には印を結び、口には真言(マントラ)を唱え、
心に大日如来を念じる。これすなわち「三密」です。

三密の実践により心と体が大日如来に一体化し、
悟りに至る、すなわち「即身成仏」するのです。

病気平癒、怨霊退散など、
現世利益を必ずしも軽く見ないことにも密教の特徴があります。

空海の密教の学習は日本にいた時にほとんど完成しており、
あとは疑問点を質問する程度でした。

また空海は唐にわたった時点ですでに中国語がしゃべれました。
日本の大学には中国語の音韻を教える教師もいて、
あらかじめ空海は中国語をマスターしていたようです。

そのため、通常なら20年かかる学習を
2年で終え、空海は帰国します。

帰国後しばらく大宰府に滞在します。
留学生は20年間の滞在が義務づけられているのに
2年で空海は戻ってきたので、
罰として大宰府に飛ばされていたとも言われます。

809年、空海は都に帰還しました。その取り成しをしたのは
最澄だったと伝えられます。

「ようやく戻ってきたぞ。さあ真言密教の力で、
広く民を救うのだ」

816年、空海は嵯峨天皇より許しを受けて
高野山金剛峰寺を建て真言宗を開きます。

行き詰る最澄

一方、最澄は、自分が理想とする仏教と、
世の中が求めるものとの間に食い違いを感じていました。

「法華経の説く理想は衆生救済。
金持ちも、貧乏人も、貴族も、平民も、
世の中すべての人をわけへだてなく
救うことにあるのだ」

しかし、その高邁な理想は、
世の中からなかなか理解されませんでした。

天台宗の主なお客さんである貴族たちにとっても、
やはり求めるのは病気平癒などの現世利益の部分でした。

「病気が治るなら仏教もいいけど、
小難しい勉強なんて、やりたくないんです」

「日照り続きで困ります。天台宗は密教もやるんでしょ?
雨を降らしてくださいよぉ」

「ううむ…」

こういう声が多いこと自体、人々が天台宗の
あまねく衆生を救うという根本を理解せず、
密教についても単なる呪術・まじないの類と
勘違いしていることを示していました。

世間が望むのはいつの時代も、
わかりやすい、目に見える現世利益です。

最澄は中国で密教の修法も学んできました。
だから最澄は密教にも多少心得はありました。
しかし、最澄は密教は帰り際に少し学んだだけで、
その知識はいかにも不十分でした。

一方、空海の真言宗は嵯峨天皇の保護を受け、
その人気は上がっていました。
世間の人気は真言密教に傾きつつありました。

とはいえ、最澄の天台宗も依然
日本仏教界のトップに君臨しており、
最澄はのうのうと空海の上に在り続けることもできました。

しかし、驚くべきことに、最澄はその安全な立ち位置を、
みずから、捨てます。

最澄、空海に教えを乞う

811年(弘仁2年)45歳の最澄は、大英断を下します。

「空海殿に、密教の教えを乞おう」

「ええっ…!」
「大師さま、なにをおっしゃるんです!!」

弟子たちは反発します。

空海は嵯峨天皇からあつく寵愛され、
贔屓にされていました。
かつて最澄が桓武天皇から寵愛されていたように。

このままでは、いずれ天台宗をおしのけて
真言宗が日本仏教界のトップに立つかもしれない…
そんな危機感もあり、
弟子たちの間には空海への反発があったと思われます。

「どうして空海などに教えを受ける必要がありますか!」
「大師さま、あまりにそれは、情けないのではありませんか!」

「お黙りなさい。
どちらが人気があるとか、無いとか、
そんなことは御仏の前には何の意味も無いことです。
空海殿は学ぶに足る方であり、
学ぶ内容がある。だから私は、学ぶのです」

こうして最澄は7歳年下の、身分もはるかに下の空海の前に膝を折ります。

次回「最澄と空海(四)決裂」に続きます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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