奥州藤原氏(三) 二代基衡

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こんにちは。左大臣光永です。

先日、ラーメン屋に入ったんですが、メニューが読めないんですよ!「鳥白湯塩」トリバイタンシオとか、そういう、割といかめしい漢字が並んでて、しかも読み仮名が無いので困りました。中国人がやってる店なので、日本人がいかにシャイか。漢字を読み間違えることを恥と思うか。恥をかくくらいなら、最初からやらない日本人の国民性を舐めんなよと思いました。メニューに読み仮名をつけるだけで、まったく売上が違ってくるのに、惜しいことです。

さて

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というわけで、松尾芭蕉『おくのほそ道』に関連して、奥州藤原氏の話をお届けします。芭蕉が平泉中尊寺でしみじみと涙を流している、奥州藤原氏、清衡・基衡・秀衡の「三代の栄耀」についての、お話です。

本日は第三回「二代基衡」です。前回の

初代清衡(一)
初代清衡(二)
とあわせてお聴きください。

清衡から基衡へ

奥州藤原氏初代清衡の跡を継いだのが二代基衡です。しかし、簡単には行きませんでした。例によって、跡目争いが起こります。

清衡に二人息子がありました。長男の家清と次男の基衡です。家清の母は清原氏。基衡の母は阿部氏です。阿部氏は前九年合戦で滅ぼされた俘囚ですので、清原氏のほうに軍配が上がります。もともと、家清が跡をつぐはずでした。

基衡と家清
基衡と家清

しかし、これに基衡が叛旗をひるがえします。継ぐのは俺だと。途中経過はまったくわからず、結果だけがわかっています。家清は、海路、出羽から越後へ逃げようとした所を捕えられ、斬られました。こうして基衡が二代目となりました。

平泉の発展と毛越寺

「父から受け継いだ平泉を、より大きく、発展させるのだ」

基衡は平安京を強く意識し、平泉を京都風の都市として発展させていきました。毛越寺を建立し、毛越寺に接するエリアには方形の都市を区画しました。毛越寺の寺院や庭園は京都の法勝寺を強く意識し、方形の都市は、宇治や白河を強く意識したものでした。

毛越寺本尊の薬師仏の製作は、都で評判の仏師・運慶に依頼しました。費用の見積もりを取ったした所、上・中・下の三品から選ばれよ、では中品で。心得た。こうして運慶は製作に入りました。手付金として100両、さらに、鷲の羽百尻はじめ陸奥のさまざまな産物を運慶に送りました。

その上、正規の製作料のほかに、生美絹(すずしのきぬ)を船三艘に載せて運んだ所、

「ありがたいが、練絹のほうがよかった」

運慶が冗談にそう言うと、すぐに練絹を船三艘に載せて送りました。都で平泉がおおいに話題になるように。平泉とはそんなに豊かな場所なのかと噂が立つように、基衡は計算して大盤ふるまいをしたのでした。

また金堂に掲げる額は、当代一の能書家・藤原忠通に依頼しました。しかし藤原忠通は摂関家の氏の長者。藤原氏のトップであるというプライドの高い男です。

万一、蝦夷の寺を飾るのに自分の字が使われると知ったら、断るに決まっていました。しかし、私は何としても忠通殿の字がほしい。そこで基衡は考えました。

仁和寺を通して、依頼者の名前をふせて、藤原忠通に依頼したのです。

完成した額が、平泉に送られてきました。ほお…さすが法性寺流。見事な筆運びじゃわい。基衡大満足です。ところが、額を送った後で、忠通は、依頼主が奥州藤原氏であったことを知りました。

「騙されたッ!取り戻せッ!摂関家の、
いや法性寺流の威信にかけて!」

忠通は使者を平泉に送りました。

「返してください」
「そう言わずに」
「いいえ、ぜったい返してもらいます」

バキッ、バキーーン

ついに使者は額を叩き割って、持ち帰りました。都の貴族たちの蝦夷嫌いは、ここまでひどいものだったのです。

こんな苦労も重ねた末に、毛越寺の伽藍は完成します。堂塔40、僧坊500を数え、中尊寺をもしのぐ規模をほこりました。しかし毛越寺は度重なる火事で焼け、戦国時代の兵火ですっかり焼失してしまいました。

現在は大泉(おおいずみ)が池を中心とする浄土庭園と、いくつかの礎石が往事のおもかげを伝えるのみです。

宇治悪左府との争い

基衡はガッシリと体格のいい人物で、性格も豪胆で妥協することを知りませんでした。摂関家に対しても、毅然とした態度で臨みました。

摂関家は東北にも五ケ所の荘園を有し、その管理を基衡にゆだねていました。「宇治の悪左府」といわれた藤原頼長は、荘園からの上納金を値上げすると通告してきます。

「そんなことは認められぬ」

「なにを。たくさん収穫しているのであろう」

「そんなことは無いッ」

双方の間に使者が行きかい、そのやり取りは実に五年間に及びました。
ついに頼長のほうが折れました。

「わかったわかった。こんなに長引くとは、思わなかった」

こうして上納金の値上げはわずかな額に抑えられました。この時基衡は60歳くらい。頼長は35歳。基衡のほうが一枚役者が上だったようです。

「匈奴めがッ…」

よほど腹が立ったのか頼長は日記「台記」の中で基衡のことを「匈奴」とののしっています。匈奴とは漢帝国の北方異民族に対する蔑称です。蝦夷よりもさらに侮蔑の意味をこめて匈奴と呼んだのです。貴族たちの蝦夷嫌いはここまで徹底していました。

基衡の最期

保元元年(1156年)都では保元の乱が起こり、崇徳上皇が讃岐に流され宇治の悪左府藤原頼長は戦死しました。その翌年の保元2年(1157年)、藤原基衡は息を引き取ります。遺骸は金色堂に須弥壇を設けておさめられます。生れた年が不明なので享年も不明ですが、後三年の役後の生まれとすると、70歳くらいでなかったかと考えらていれます。

奥州藤原氏 おぼえ方

奥州藤原氏のおぼえ方です。

キモヒヤス。

キ  清衡
モ  基衡
ヒ  秀衡
ヤス 康衡

キモヒヤス。
奥州藤原氏四代。
と覚えてください。

明日は「三代 秀衡」です。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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