日蓮の生涯(最終回)入寂

■解説音声を一括ダウンロード
【古典・歴史】メールマガジンはこちら

こんにちは。左大臣光永です。日々、雨がそぼ降る中、いかがお過ごしでしょうか?

私は最近、音声にやたらノイズが出るようになって困り果てていました。
そこで試しにマイクとオーディオインターフェイスを買い替えた所、
まったくノイズは気にならなくなりました。
むしろマイク無しで直接iPadにむかってしゃべっても
十分に低ノイズの音でした。

どうやら湿気でマイクがいかれていたようです。
いや~マイクって扱いが大変だなと、
実感しました。

本日は「日蓮の生涯」最終回。
ゼンハイザーe935というマイクでしゃべります。

▼音声が再生されます▼

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Nichiren08.mp3

上行自覚・大曼荼羅

文永の役後の12月15日、日蓮は『顕立正意抄(けんりゅうしょういしょう)』をあらわし、世間の人々の頑迷さを嘆いています。

池上本門寺
池上本門寺

池上本門寺 日蓮像
池上本門寺 日蓮像

「今や私の予言は成就し、蒙古の襲来は現実となった。なのに世の中は相変わらずの頑迷さで、何もしようとしない。嘆かわしいことである!」

それが、文永の役に対する日蓮の感想でした。日蓮の中では、あらゆる社会の出来事は「悪いことが起こるのは世の中が法華経を信じないからだ」という物語に書き換えられて理解されていました。

またこの頃、日蓮は「大曼荼羅図」をあらわし、我こそは上行菩薩であるとの自覚を強く示しました。上行菩薩とは、法華経の第十五品(従地湧出品第十五)に登場する菩薩です。大地が割れて、1000万億をさらに無量倍した数の菩薩が湧いてきます。これらを地湧菩薩といい、釈迦が教え導いた弟子たちでした。そして地湧菩薩のリーダーが上行菩薩です。

「大曼荼羅図」の縁起に、日蓮は示しています。釈迦が亡くなってから2500年の末法の世に、上行菩薩があらわれて、『法華経』の正しい教えを広めると。つまり、私日蓮こそ地湧菩薩のリーダー・上行菩薩であり、末法の今の世に、『法華経』の教えを広める行者であると、日蓮はいよいよ確信を強めているわけです。

「我日本の柱とならん 我日本の眼目とならん 我日本の大船とならん」三代誓願
「我日本の柱とならん 我日本の眼目とならん 我日本の大船とならん」三代誓願

熱原法難

日蓮が身延に引退してからも、各地で弟子が布教に励み、信者は増えていきました。また迫害も増してきました。中にも、駿河の熱原(あつばら)郷での迫害は最大のものでした。

駿河では日に日に法華経信者が増えていました。健治元年(1275)頃、駿河熱原郷の真言宗の寺院・滝泉寺(ろうせんじ)の僧五人が身延を訪れます。いったい日蓮とはどういう者なんだろう。敵なのか?敵なら敵で、まず相手を知らなければならない。ところが、日蓮の話を聴くや、

「日蓮さまの素晴らしいことよ」
「今まで俺たちは間違っていたんだ」
「そうだ。法華経こそ真理だ」

五人のうち三人が法華経信者に改宗し、その名も日辨(にちべん)・日秀・日禅と改めました。寺の管理代行人・行智は怒り狂います。

「許さんぞお前たちが法華経信者になるなど!
法華経は棄てると、誓え!」

「誓いません!!」

日禅は寺を追い出されましたが、日辨・日秀の二人は寺に留まり抵抗します。しかし僧坊を叩き壊されるなど、嫌がらせを受けました。弘安2年(1279)行智は日秀らを幕府に訴えます。

「日秀らは武器を携えて管理代行人・行智の倉に押し入りました。また信徒の熱原の百姓たちは、他人の田から勝手に刈り取り、日秀の屋敷に運び込みました」

事実はまったく逆で、行智側の百姓たちが日秀の田から刈り奪おうとしたのでした。こうして無実の百姓百二十名あまりが逮捕されます。

「冤罪だ!」
「行智こそ、百姓に乱暴狼藉を働いたではないか」

そこで日辨・日秀は身延にいる日蓮に指示を仰ぎます。日蓮は、裁判で無実を訴えること、行智の非道を訴えるこを指示しますが、その指示は間に合わず、百姓三人が死罪となり、その他十七名も禁獄されました。

死刑は凄惨を極めました。平頼綱は三人を木に縛り付け、

「念仏を唱えよ!!」

しかし、三人は、

「南無妙法蓮華経」

題目を唱えるので、ひょうっ。どすっ。ぐはっ。矢を打ち込み、

「もう一度言う、念仏を唱えよ」

「南無妙法蓮華経」

ひょうっ。どすっ。ぐはっ。矢を打ち込みますが、

打ち込まれるたびに、三人はお題目を唱えました。打ち込まれること七筋に及んで、ついに三人は息絶えました。

弘安2年(1279)熱原法難と呼ばれる殉教事件です。

弘安の役

さてフビライは諦めていませんでした。文永の役の翌年の1275年3月、フビライはモンゴル人杜世中(とせいちゅう)と漢人何文著(かぶんちょ)を使者として、ふたたび日本に送ります。

しかも今度の国書は、今までのようなおだやかな内容ではありませんでした。ハッキリと日本に服属を求めていました。

使者の一行は今度は対馬でなく長門の室津(山口県豊浦町)に上陸しましたが、使者は現地人の襲撃を受けて殺され、生き残った五人は大宰府に、ついで鎌倉に送られました。さて、執権北条時宗の判断は、

「斬れ!」

五人は竜ノ口(たつのくち。神奈川県藤沢市片瀬)にて斬られ、さらし首にされました。現在、神奈川県藤沢市常立寺(じょうりゅうじ)に「元使五人塚」が残ります。

常立寺
常立寺

常立寺 元使五人塚
常立寺 元使五人塚

甲斐の身延山(みのぶさん)に隠棲していた日蓮はこれを聞いて、

「悪いのは念仏僧・真言僧・禅僧であるのに、何の罪も無い蒙古の使いが斬られるとは、気の毒なことだ!」

そう語ったと伝えられます。

同年3月、蒙古への守りとして博多湾沿岸に石築地の構築が命じられました。いわゆる元寇防塁です。

その後、フビライは再度使者を送ってきましたが、これも切りました。

もはや日本と元の関係は、完全に決裂。修復不可能となりました。フビライは高麗と旧・南宋に命じて大船団を建造させると、1281年正月、日本遠征軍の出発を命じました。

弘安の役
弘安の役

遠征軍は二手に分けて組織されました。

モンゴル軍・漢軍・高麗軍四万からなる、合浦を基地とする東路軍。
そして旧南宋の兵十万からなる、慶元(現・寧波)を基地とする江南軍。

弘安4年(1281年)5月3日。元・高麗連合軍4万の東路軍は九百艘の船に分乗し合浦を出航。

21日。対馬上陸。次いで壱岐を通過。

6月8日。博多湾沖・志賀島に上陸。日本はこれを撃退。

一方、江南軍は慶元や舟山島(しゅざんとう)から、6月中旬から順次出航していました。

6月末。江南軍は平戸から五島列島にかけての海域に到着。一部は東路軍と合流して壱岐を襲撃しました。この壱岐の戦いの後、江南軍は平戸や五島列島に到着した東路軍と合流しました。ところが、両軍はなぜか、平戸のあたりで一か月もの間、グズグズします。

7月。両軍は肥前鷹島に移ります。合計4400艘、14万人の兵力で一気に博多に攻め寄せようという考えだったようです。

しかし、平戸で一カ月もぐずぐずしたことが命取りとなります。時は旧暦の閏七月。台風の季節です。

ゴオーーーーーー

強烈なのが、吹き荒れました。

ドガガーーン、どがががーーっ

ぎゃあーーー

ひいいーーー

元軍の船団は押し寄せる荒波に、打破られます。生き残った者は、命からがら本国に逃げ帰ります。またも、蒙古は撤退していったのです。

なぜ蒙古の船団は平戸でグズグズしたのか?理由はまったくわかりません。日本を威嚇し、沿岸から無言の圧力を加えることで、日本が自主的に降参してくることを狙っていたのかもしれません。

また14万人といってもモンゴル人、漢人、高麗人、南宋人の混成軍であり、内部で何かゴチャゴチャもめていたのかもしれません。今後の研究が待たれる所ですが、とにかく、元軍は一か月をムダに費やし、それが命取りとなりました。

二度目の蒙古襲来・弘安の役の情報は身延にも届きました。

蒙古によって日本が滅ぼされるであろう。その上で、法華経による仏国土の建設が始まる…日蓮の予言はそういう内容でしたが、またも外れたわけです。またも予言がはずれたことについて日蓮はどうコメントしたでしょうか?口を閉じて一言も言わないばかりか、弟子たちにも蒙古について言及することを禁じています。この沈黙は何を意味するのか?予言が外れた敗北感か、もしくはもう日蓮の目はこの世のことではなく、遠い浄土を見ていたのでしょうか…

入滅

弘安5年(1282)秋。いよいよ日蓮の健康状態は悪化していました。身延の強烈な寒さで下痢を引き起こし、それが慢性化していました。「私ももう長くない」「そんな日蓮さま、気弱いなことをおっしゃいますな。そうだ。湯治に行かれましては?」「湯か…」

波木井実長のすすめで常陸に湯治に向かうことにしました。日蓮は波木井実長の与えた栗鹿毛の馬に乗り、常陸めざして身延を後にします。

途中、休憩のため武蔵国池上の弟子・池上宗仲の家に入ります。現在の東京都大田区。池上本門寺。

池上本門寺
池上本門寺


ここで日蓮は体調が一気に悪くなり、いよいよご臨終であろうということになりました。日蓮は自筆の大曼荼羅を枕頭にかけ、日昭、日朗はじめ弟子たちと法華経を読みながら、静かに入寂しました。弘安5年(1282)10月13日。享年61。日蓮の遺骨は遺言により身延山に納められました。

池上本門寺 五重塔
池上本門寺 五重塔

多宝塔
多宝塔

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。
次回は商品のご案内をお送りさせていただきます。

解説:左大臣光永

■解説音声を一括ダウンロードする
【古典・歴史】メールマガジンはこちら