足利尊氏の鎌倉入り

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足利直義の三河入り

建武2年(1335年)7月25日。鎌倉に北条高時の遺児・北条時行の軍勢が入ります。鎌倉に北条氏の旗がひるがえるのは二年ぶりのことでした。

「ふん。鎌倉など、いつでも奪い返せる。せいぜいいきがっておくがいい。」

鎌倉を脱出した足利直義の軍勢は東海道を西へ向かい、8月22日、甥の義詮・後醍醐天皇の八宮・成良親王とともに三河国矢引に入ります。

三河は足利氏にとって下野足利庄に次ぐ、第二の拠点ともいうべき土地です。足利氏は13世紀に三河守護に任じられて以来、三河に多くの所領地を持っていました。三河の地名を名字に持つ吉良・一色・今川などは、足利氏の一族です。

去る元弘三年(1333年)に、鎌倉方の将軍として京都に派遣された足利尊氏(高氏)が途中、後醍醐天皇方につく決断をしたのも、ここ三河の地でした。一つには足利の根拠地三河で、多くの兵力を集められるという計算から、一つには鎌倉を離れ、足利の本拠地に入った安心感から、高氏の本音が行動となって出たものと思われます。

そんなわけで、足利氏にとって地元ともいうべき三河で、足利直義はいったん体制を調え、北条時行軍に反撃しようとしたのです。

まずは後醍醐天皇の八宮・成良親王を京都に送り返すと共に、兄尊氏へ援軍要請をします。

足利尊氏の要求

京都で知らせを受けた足利尊氏は、すぐさま後醍醐天皇に許可を求めます。

「うむ。足利尊氏。すぐさま北条時行を追討し、鎌倉を奪還せよ」

「ははっ…それについて、尊氏は二つのことを希望いたします」

「なに?申してみよ」

「一つは征夷大将軍への就任。一つは日本国総追捕使」

「なっ…」

御簾の奥で絶句する後醍醐天皇。尊氏の主張はこうでした。武士たちを戦働きさせるには、しっかりと恩賞を与えるのが一番である。しかし何か戦働きのたびに朝廷にうかがいを立てていては、実際に恩賞にあずかれるまで長い時間がかかるし手続きも面倒である。それでは武士のやる気をそぐ。ここはいったん、武家の棟梁としての権威と関東の支配権を私にゆだねていただき、私一個の判断で迅速に恩賞を出せるようにしてほしい。それでこそ、武士どもは心おきなく戦えるのだと。

ようするに、戦争という非常時には、君子の判断よりも将軍の判断が優先される。だから私を将軍として、権威と支配権を一任してくださいという要求です。

この時点で足利尊氏に独立政権を築くという野心があったかは不明ですが、私は無かったと思います。その後の足利尊氏の行動を見ても、常に消極的です。状況に流されるように動いています。後醍醐と対立するようになってからも、常に後醍醐に敬意を払い、どうしてこんなことになったと、深い後悔をしながら動いています。自ら強いビジョンを打ち立てて動いている感じではないです。

だから少なくもこの段階で、足利尊氏に武家政権を打ち立てるといった野心はなかったと私は思います。

しかし後醍醐天皇は足利尊氏の野心を強く疑いました。

(こやつを征夷大将軍に…?とんでもない!大方鎌倉にいすわって朝廷にたてつくつもりであろう)

「だめだだめだ。征夷大将軍など、許可できぬ」

そこで後醍醐天皇は、第八皇子・成良親王を征夷大将軍としました。自分の分身である親王をトップにすえることによって足利尊氏の野心への歯止めとするつもりだったのでしょう。ちなみにこの時点でまだ成良親王は京都に帰還していませんが。

8月2日。足利尊氏は軍勢を率いて東海道を東へ向かいます。征夷大将軍の許可を得られないままの出発でした。

「なに!尊氏が動いた?勝手にか!?」

後醍醐天皇は慌てました。征夷大将軍さえ渋れば尊氏は動かないと思っていたのでしょう。尊氏にもし幕府を建てるような野心があるなら、征夷大将軍にしないことで、牽制できると思ったのでしょう。

しかし、尊氏は後醍醐の綸旨とは無関係に行ってしまった。これはまずい。かえって尊氏の反感をあおる結果になったと、後醍醐天皇はあわてます。

「今すぐ尊氏のもとに使者を飛ばせ!征東将軍に任じると」

こうして後醍醐天皇は足利尊氏を征夷大将軍ならぬ征東将軍に任じました。これはいかにもマズかったと私は思います。尊氏の要求を退けるなら、断固、全ての要求を退けるべきでした。オロオロと、腰が引けている感じです。

しかも征夷大将軍ならぬ征東将軍では、尊氏がどれほど満足したでしょうか。尊氏を引き留める効果はなかったと思います。

このあたりに後醍醐天皇の判断力の甘さや優柔不断さがよく出ています。

鎌倉入り

東海道を東へ向かった足利尊氏は、三河矢作で弟の直義と合流。すぐさま北条時行討伐に向かいます。

8月9日。遠江橋本(静岡県浜名郡新居町浜名付近)の戦いを始めとして、小夜の中山で、箱根で、相模川で、片瀬川で…時行軍を撃破しながら東へ進み、19日、鎌倉を奪還しました。北条時行の天下はわずか20日ほどでした。諏訪頼重は自殺し、北条時行はいずこかへ逃げ去りました。

足利尊氏の中先代の乱における進撃ルート
足利尊氏の中先代の乱における進撃ルート

「くそっ…私は必ず戻ってくるぞ。滅びし北条の恨み、けして忘れぬ。忘れさせぬ」

この北条時行、かなりしぶとい男で、後日、意外な形でふたたび世を騒がせることとなります。

ともかく、足利尊氏は鎌倉に入りました。思えば鎌倉幕府の将軍として鎌倉を出発したのが元弘3年(1333年)。2年ぶりの鎌倉入りとなりました。

「変わっていないな。若宮大路も…」

そんなことも、つぶやいたでしょうか。

尊氏・直義兄弟の対立

「これより恩賞を取らす!」

足利尊氏は征夷大将軍を自称し、みずからの判断で配下の武士たちに恩賞を与え、北条時行の残党狩りを命じます。やや遅れて京都に鎌倉奪還の知らせが届きます。

「うむ鎌倉は取り返したか…じゃが、尊氏は何やら勝手なことをやっているようじゃな」

後醍醐天皇はすぐさま鎌倉に勅使を立てます。

「すみやかに帰洛せよ。恩賞は天皇が直接綸旨によって行う。そのほうがやることではない」

(やはり…勝手に恩賞を下すなど、やりすぎとは思ったのだ。私はあくまで帝の臣下。すみやかに帰洛しよう…)

と思った尊氏を弟の直義が遮り、

「兄上!何を迷い言をおっしゃいますか!ようやく帝と新田義貞らの陰謀から逃れ、武運に護られ鎌倉に入ることができたのです。ふたたび敵の前に身を投げ出すなど、愚かです!」

「敵!そんなお前、帝を敵などと!」

「違いますか?現に兄上は建武政権では、何のお役もいただいていないではありませんか。六波羅探題を攻め落とした功績に対して、いただいたのは『尊』の一文字だけですか」

「口が過ぎるぞ直義!」

「それに大塔宮を見殺しにしたことを、帝はけしてお許しにならないでしょう」

「それはお前が勝手な判断でやったことである」

「帝はそうは御覧にならないでしょう。足利尊氏はわが子大塔宮を殺した憎き敵。そう考え、また、まわりにもそう言って喧伝なさいましょうな。となれば、鎌倉に政権を打ち立て、京都と対抗する他、我等が生きるのびる道はありますまい」

「ぐぬぬ…」

8月30日の除目で後醍醐天皇は足利尊氏に従二位の位を授け、すぐさま鎌倉に勅使を立てこれを知らせ、ふたたび帰洛を促します。これは足利尊氏を建武政権の中に引き戻そうとする、後醍醐天皇の最後の試みでした。これを拒めば、もう二度と後には引き返せなくなる。それを尊氏も理解していました。しかし今回も、弟直義の勢いに押され、帰洛はしないことになりました。

10月15日。若宮小路の旧鎌倉幕府将軍邸跡に屋敷を建て、足利尊氏は二階堂の仮屋敷から移ってきました。後醍醐天皇の帰洛命令に、行動をもって背いた形となりました。

「もはや私は…完全に反逆者だ。とほほ…」
「兄上、それでこそ、よいのです」

尊氏と直義の考えは、根本的に食い違っていました。直義は鎌倉幕府を継ぐ武家の政権を鎌倉に打ち立てる積極的なビジョンを描いていました。それに対し尊氏は、そこまでの考えはなく、後醍醐天皇と決裂することに強いためらいを感じていました。

武士はあくまで天皇に随うものという古い価値観を持ち、また君臣関係を越えて、もっと個人的な意味でも後醍醐天皇に深い敬意を抱いていました。

後日、新田義貞の軍勢と戦う際にも尊氏は朝敵となることに強く心を痛め、ついに隠居して一切の政務を直義に譲るとまで言い始めました。どうも足利尊氏という人物は、鬱病やノイローゼの気質があったようです。足利兄弟の確執は後々まで根を引き、観応の擾乱と呼ばれる争いにつながっていきます。

さて、いくら使いを送っても帰洛しない足利尊氏に、後醍醐天皇は業を煮やします。

「もはや待つまでもない。足利尊氏に反逆の意思があることは、その行動から明らかである。新田義貞。足利尊氏を追討せよ」

「ははっ」

新田義貞。かつて鎌倉を陥落させ、北条氏を亡ぼした男が、同じく六波羅探題を亡ぼし、鎌倉幕府に引導を渡した足利尊氏を討伐するため、今、東海道を下ります。

次回「足利尊氏と新田義貞」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永

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