紫式部7 紫式部の「憂し」

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悲しみにとらわれる

こんな楽しげな毎日であるにもかかわらず、式部はたまに里に帰ると、ふと憂鬱にとらわれました。過ぎ去った昔を思うと、さまざまに感慨がこみ上げました。同僚の女房、大納言の君とのやり取り。

大納言の君の、夜々御前にいと近う臥したまひつつ、物語りしたまひしけはひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる心か

(大納言の君が、夜毎に中宮さまの御前にたいそう近くお臥しになりつつつ物語なさった様子が恋しいけれど、やはり今の境遇に流れていってしまう心であるよ)

うきねせし 水の上のみ 恋しくて 鴨の上毛に 冴えぞ劣らぬ

(あなたと一緒に仮寝した宮中のことばかり恋しくて、寒々とした気持ちなのは鴨の上毛にもまさっていますよ。「うきね」は水の上で寝ること。宮中の浮ついた気持ちをあらわす。「憂き寝」を掛ける。「水の上」…鴨にとっての「水の上」は式部にとっての「宮中」)

返し

うちはらふ 友なき頃の 寝覚めには 番ひし鴛鴦(おし)ぞ 夜半に恋しき

(鴨の羽におりた霜を打ち払うように語り合う友もいない今は、夜半に目が覚めると、番の鴛鴦のようにあなたと一緒にいたことが愛おしく思えます)

中宮彰子、還幸

寛弘5年(1008)11月17日、中宮彰子は敦成親王とともに土御門邸を後にし、内裏に還御しました。式部も中宮に従って一条院内裏へ入ります。

寛弘5年の暮れ

寛弘5年(1008)も年が押し詰まりました。式部は12月はじめに里に退り、29日にふたたび一乗院内裏へ。宮仕えにもすっかり慣れてきて、2年前はじめて出仕した時の(たった5日でやめて引きこもった)あの頃の式部とは、まるで違っていました。本人もそれを自覚するのでした。(ずいぶん慣れてきたわ。でもそれもある意味つまんないかも)と。

師走の二十九日に参り、はじめて参りしも今宵ぞかしと思ひ出づれば、こよなう立ち馴れにけるもうとましの身のほどやと思ふ。夜いたうふけにけり。前なる人々、「内裏(うち)わたりは、なほいとけはひことなり。里にては、今は寝なまし。さもいざとき沓のしげさかな」と、色めかしく言ふを聞く

(師走の二十九日に再度、出仕した。はじめて出仕したのも今夜だったなあと思い出すと、たいそう宮仕えにも慣れてまった、いやらしい身の上だと思う。夜がたいそう更けてきた。前にいる女房たちが、「内裏のあたりは、やはり里とは様子が違うわね。里なら、今は寝ている時間でしょう。ほんとうに寝つけないほど、沓の音がやかましいわね」と、色めかしく言うのを聞いて)

年暮れて 我がよふけゆく 風の音に 心のうちの うさまじきかな

(年が暮れて、私の年齢もかさんでいく。風の音をきくと、心のうちに寒々したものが吹き付けるよ)

敦成親王呪詛事件

寛弘6年(1009)正月。土御門邸にて昨年生まれた敦成(あつひら)親王の戴餅(いただきもち)の儀が行われます。戴餅の儀とは、頭の上に餅を戴き、子供の成長を祝う儀式です。

この年は正月早々、気の滅入る事件がありました。正月30日、僧や陰陽師らが中宮彰子および敦成親王・藤原道長を呪詛していたことが発覚したのです。

「言えッ!命じたのは誰だ!」

厳しい拷問を加えたところ、白状しました。

呪詛を命じた犯人は中関白家の藤原伊周(これちか)の母の実家・高階(たかしな)家につらなる者たちでした。

中関白家の没落に伴い、伊周の母方である高階家も没落しました。それを彼らは恨んでいました。それで、円能という僧をやとって中宮彰子、敦成親王、藤原道長を呪詛させたのでした。

中にも、主犯格である高階光子(こうし)は関白藤原道隆と結婚して伊周・隆家・定子らを産んだ、高階貴子の妹で、道隆の家に仕えた女官でした。

2月20日、伊周は公務を停止されます。

伊周自身は道長と一緒に賀茂祭を見物するなど、道長との関係は良好でした。中関白家復興をはかって道長を呪詛するなど、伊周には思いもよらぬことでした。しかし身内がやらかしたことまでは、どうにもなりませんでした。

主犯格の高階光子・源方理(かたまさ)らは官位剥奪。円能は絞罪(絞首刑)となるところを禁獄となりました。平安時代はじめの平城太上天皇の変で処刑された藤原仲成以来、死刑は長く停止されていたので、この時も行われませんでした。次に公式な死刑が復活するのは保元元年(1156)保元の乱の直後です。

6月13日、伊周の公務停止は解除されますが、伊周は翌年の寛弘7年(1010)正月29日、亡くなりました。享年37。

一時は大宰府に流され、都に戻ってきた後も叔父の道長が日に日に勢いを伸ばしていく中、伊周の立場は心細いものでした。傾きつつある中関白家の大黒柱として、そのプレッシャーもそうとうなものだったでしょう。

この呪詛事件について藤原道長の『御堂関白記』はまったく記録を欠いています。よって道長の感情を知ることはできません。

『紫式部日記』にもこの事件はまったく書かれていません。式部はこの事件を知っていたに違いないのですが…

和泉式部の出仕

寛弘6年(1009)4月、和泉式部が中宮彰子のもとに出仕してきました。

「和泉式部です。よろしくお願いいたします」
「これは…」

おもわず息を飲む紫式部。和泉式部には、紫式部に無いものを持っていました。それは美貌と、ただよう色香です!

和泉式部。生没年未詳。父は大江雅致。

999年までに橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚。道貞が和泉守に任じられると、夫の官職名から以後、和泉式部と女房名で呼ばれることになります。

夫橘道貞との間に女子(小式部)をなしましたが、その後、冷泉上皇第三皇子・為尊親王との不倫の恋に走ります。そして為尊親王が若くして亡くなると、一周忌も過ぎぬうちから、その弟・第四皇子敦道親王との熱烈な恋が始まりました。

いかに色恋におおらかな時代とはいえ、和泉式部のみさかいなしの好色さは世間から冷たい目で見られました。ところが敦道親王も若くして亡くなると、

和泉式部は性も根も尽きて、実家に戻ってきました。そこへ父大江雅致から出仕をすすられたのでした。ちょっと頭冷やしてこいと、そんな感じだったでしょうか。

紫式部は和泉式部をひと目見てライバル心を燃やした…というより、かなわないという敗北感を味わったようです。

美貌だけではありません。歌の詠みっぷりも、和泉式部は、彼女の生き様そのもののような、形式にとらわれない、びのびしたものがありました。

ことに、亡き敦道親王をしたって、絶唱ともいうべき120首もの歌を詠んでおり、心を打ちます。

黒髪の乱れも知らず打伏せば
先づ掻き遣りし人ぞ恋しき

片敷きの袖は鏡とこほれども
影にも似たるものだにぞなき

遠くにいて噂にきいているだけの人物なら気にならなくても、いざ近くにいると、まして同僚となると、とたんに意識しだすものですね。紫式部は和泉式部に対してこう批評しています。

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才(ざえ)ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと、もの覚え、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる、よみ添へはべり。それだに、人の詠みたらん歌、難じことわりゐたらんは、いでやさまでは心は得じ。口にいと歌のよまるゝなめりとぞ見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覚えはべらず。

『紫式部日記』

和泉式部という人とは、興味深い文をやり取りしました。しかし、和泉にはけしからん面がありますが、気軽に走り書きした時に、(和泉式部は)その方面(文章)の才能のある人で、ちょっとした言葉の美しさも感じられるようです。歌は、あれこれ趣向をこらすこと、古歌についての知識、歌の理論、(これらについては和泉式部は)、ほんとうの歌詠みの様子ではありませんが、口にまかせて詠む歌どもの中に、かならず趣深い一節で、目に留まるものを詠み添えてあります。そうであっても、人の詠んだような歌を、批判し批評している時は、さあ、そこまでわかっているようでもなく、口にまかせていい歌が(自然に)詠まれるのでしょうと、思われるような歌人ですよ。(だから私は、和泉式部が)立派な歌詠みとは思いません。

……

コンプレックスとライバル心がむき出しになったような文章です。紫式部の時代は、趣向をこらした技巧にこった歌がよしとされており、和泉式部のような情念にまかせてツッ走ったような歌は格下とされていました。それもあって、さんざんに批判してるんでしょう。

ずっと後年成った『後拾遺集』には和泉式部の歌はもっとも多く、67首も採られているのですが…

中宮彰子、ふたたび懐妊

寛弘6年(1009)3月、中宮彰子がふたたび懐妊しました。6月19日、彰子は敦成親王とともに内裏を出てふたたび土御門邸へ。去年に続けて今年も懐妊!でかしたぞ。そんな道長の声もきこえてきそうです。

道長の戯れ

6月21日、土御門邸内の供養堂で法会があり、式部も夜になって参詣しました。法会の後は、舟遊びとなりました。

この時、道長は中宮彰子の前に『源氏物語』があるのを見て、とりとめもない冗談など言ったついでに、梅の実の下に敷いた紙に歌を書いて、

すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らですぐるは あらじとぞ思ふ

(好色と噂が立っているので、見る人であなたにちょっかいを出さない男はないと思いますな。「好き」と「酢き(スッぱい)」を掛ける。梅の実にことよせて紫式部の好色をからかったもの)

という歌をたまわったので、

人にまだ をられぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ

(人にまだ手折られたことなどありませんのに、誰がこのように好色などと口にのぼらせたのでしょうか)

ある晩、式部が土御門邸の渡殿の局で寝ていると、戸を叩く人があるのを聞いたが、おそろそしいので返事もしないで夜を明かした翌朝、

夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ
まきの戸口に たたきわびつる

(一晩中、水鶏よりもやかましく、なきになきましたぞ。真木の戸口に私は虚しく叩き続けたのです)

返し

ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ
あけてはいかに くやしからまし

(ただごとではない、と思えるほどに戸を叩く水鶏でしたから、戸を開けたらどんなにか悔しい思いをしていたでしょうね)

相手の男が誰だったかは書かれていませんが、藤原定家選の『新勅撰集』には道長とあります。そこから紫式部を道長の「妾」であるというトンデモ説も生まれたわけです。信憑性の薄い話です。

伊周の死

年明けて寛弘7年(1010)。正月28日。藤原伊周が亡くなりました。糖尿病であったようです。享年37。関白藤原道隆の長男として生まれ、18歳で内大臣となり順風満帆の歩みだしをしたにも関わらず、後半生は不幸でした。藤原道長の圧力の前に権勢を失い、京から追放され、落ちぶれ果てました。晩年は儀同三司の名で詩を書いたりして、わずかに心を慰めていました。

伊周・隆家兄弟の失脚は『源氏物語』の光源氏須磨左遷のくだりに影響を与えていると言われます。

寛弘9年

明けて寛弘9年。改元して長和元年。新年といっても、昨年夫一条天皇を亡くしたばかりで、彰子の悲しみは癒えませんでした。紫式部は彰子を慰めて、

雲の上を 雲のよそにて 思ひやる 月は変わらず 天の下にて

(あの世にいらっしゃる先帝を、あなたは相変わらずこの世から思いやっていらっしゃいますね)

2月14日、彰子の妹の妍子が三条天皇中宮となり、彰子は皇太后となりました。

紫式部についての最後の文献記事は藤原実資の日記『小右記』の長和2年5月25日条です。それも「越後守為時女」と、さらりと触れられているだけで、何のエピソードもありません。

伊勢大輔との歌のやり取り

長和3年(1014)皇太后彰子が病気になったので、紫式部は清水寺に参詣し、病平癒を祈願して灯籠を奉納しています。この時、すでに紫式部は宮中を去っていたと思われます。久しぶりに会った伊勢大輔と歌のやり取りがあります。

紫式部→伊勢大輔

心ざし 君にかかぐる 灯し火の 同じ光に 逢ふが嬉しき

(わが君を思いやる気持ちを、灯籠として掲げる、その同じ光のもと、あなたと再会できたのが嬉しいこと)

いにしへの 契りも嬉し 君がため 同じ光に かげを並べて

(昔の契も嬉しいことです。わが君のために掲げたその同じ光に影を並べて、こうして再会できるなんて)

(『伊勢大輔集』)

帰宅後、紫式部は松の葉に氷をのせて伊勢大輔に送りました。

奥山の 松には氷る 雪よりも 我が身世に経る 程ぞ悲しき

(奥山の松のように世捨て人な私にとっては氷る雪よりも、わが身が年老いた具合が、より悲しいことです)

伊勢大輔の返し。

消えやすき 露の命に比ぶれば げに滞る松の雪かな

(消えやすい露のようにはかない人の命に比べれば、松にかかる雪のほうが、よっぽどあり続けますね)

(以上四首、『伊勢大輔集』)

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清少納言への批評

さて、藤原道長の周辺に対する紫式部の観察はとてもほがらかで、優しく、肯定的です。しかし一方で、同僚の女房などに対しては、辛辣な批評を書いています。中にも大先輩の女房、清少納言への批評がキツいことは、よく知られています。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、まな書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬことおほかり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみはべれば、艶なりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

清少納言こそ、したり顔で嫌な人です。あのようにかしこぶって、漢字を書き散らしていますその教養のほども、よく見れは、まだたいそう足りないことが多いです。このように、人と違ったふうにあろう好んで思う人は、かならず見劣りし、将来は悪くなっていくばかりですから、風流ぶろうとする人は、たいそう殺風景でつまらない時でも、もののあはれを(ムリに)感じようとして、興深いことも見過ごさないようにしているうちに、自然と、方向違いでつまらない様子にもなるに決まってます。そのつまらなくなった人の将来が、どうして良くなるでしょう。

晩年

晩年の紫式部がどう過ごしたのかは、わかりません。しかし『紫式部集』に晩年の気持ちを詠んだとおぼしき歌のやり取りがあります。

初雪降りたる夕暮れに、人の
(人は同僚の女房と思われる)

恋ひわびて あり経るほどの 初雪は 消えぬるかとぞ 疑はれける

(あなたを恋い慕う辛い思いが、ずいぶん長く続いています。今朝降った初雪がいつの間にか消えてしまったように、あなたも消えてしまうのではないかと心配です)

返し

ふればかく うさのみまさる 世を知らで 荒れたる庭に 積る初雪

(年を経れば(雪がふれば)悲しさばかりがまさるこの世のことを知らないで、荒れた庭に積る初雪よ。「ふれば」は「降れば」と「経れば」を掛ける)

紫式部が親しくしていた同僚の女房・小少将が亡くなった後、生前の彼女の手紙を見つけたので、式部はそれを二首の歌に託して、友人・加賀少納言のもとに送りました。

暮れぬ間の 身をば思はで 人の世の あはれを知るぞ かつはかなしき

日がまだ暮れていない間だけの、はかない身であることを思わずに(棚に上げて)、あの人の人生のはかなさを知るのは、悲しいことです。

たれか世に ながらへて見む 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども

(誰がこの世に生きながらえてこの手紙を見るでしょう。書き留めた筆の跡は消えない形見だとはいっても。結局は皆、死んでしまい、誰も思い出さなくなる)

これに対する返し

亡き人を しのぶることも いつまでぞ 今日のあはれは 明日のわが身を

(亡き人をしのぶこともいつまで続くでしょうか。今日は人の死を悲しんでいるとはいっても、明日はわが身のことですから)

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解説:左大臣光永

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