『古事記』と『日本書紀』

■解説音声を一括ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

こんにちは。左大臣光永です。

ちょっと油断して外に出るとドザーーと雨に降られるので、まいっちゃいますね!お住まいのご地域はいかがでしょうか?

私のほうは現在、商品のご注文が多く、発送作業が難航しています。ご注文いただいた方から、順次、発送していますが、ご入金から最大1週間ほどかかる場合がございます。まことに恐縮ながら、ご了承ください。

さて今週金曜日(7/25)東京多摩で私左大臣光永の語りによる「飛鳥・奈良の歴史を歩く」の講演を行います。
http://sirdaizine.com/CD/AsukaInfo01.html

この講演にあわせて、本日は『古事記』『日本書紀』の話をお届けします。

▼音声が再生されます▼
http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Kiki.mp3

歴史書編纂の勅命

その昔、壬申の乱(672年)に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位しました。天武天皇はさまざまな改革事業を行いましたが、その一つが歴史書の編纂でした。

「わが国の歴史書としては『帝紀』『旧辞』があるが、
どちらも各氏族が自分たちに都合のいいように書き換えて、
真実からだいぶかけ離れてしまっている。今この
誤りを正さないなら、その本当の内容は滅びてしまうだろう。
今こそ『帝紀』『旧辞』を調べなおし
偽りを正し、正しい内容を採り、後世に伝えようと思う

こうして『古事記』と『日本書紀』の編纂事業がはじまりました。

稗田阿礼

『古事記』の編纂のためには稗田阿礼という舎人(とねり 下級の役人)が召し出されます。稗田阿礼は一度文章を読めば記憶してしまうという驚異的な記憶力の持ち主でした。

天岩屋戸伝説でアマテラスオオミカミを引っ張り出すために岩屋の前で踊った、アメノウズメの末裔とも言われます。

『古事記』以前の歴史書として天皇家の系図を記した『帝紀』、神話や伝承を記した『旧辞』がありました。しかし、いろいろな人が自分に都合のいいように書き加えたり削ったりして、だいぶデタラメな内容になっていました。

そこで『帝紀』と『旧辞』の虚偽をただし内容を整えてから稗田阿礼に暗誦させました。

太安万侶

686年(朱鳥元年)、天武天皇が崩御すると『古事記』の編纂事業はいったん中断しますが、約30年後の711年、元明天皇の時代に再開します。

「阿礼も歳を取りました。このまま阿礼が亡くなってしまえば、
貴重なわが国の歴史が失われてしまいます。安麻呂、阿礼の話を、
文字に書き取りなさい」

「ははっ」

元明天皇の勅命を受けて、太安万侶は稗田阿礼の話をゆっくり書き取っていきます。

「すると、アマテラスオオミカミは
岩屋に引きこもってしまいました」

「岩屋に!」

「アマテラスオオミカミが引きこもってしまうということは」

「ということは」

「世界は闇に閉ざされます」

「たた、大変だ!」

イザナギ、イザナミ
スサノオアマテラスオオクニヌシ
ニニギとコノハナノサクヤビメ
海幸彦と山幸彦の神話
初代神武天皇たるカムヤマトイワレビコ
英雄ヤマトタケル

稗田阿礼の話を聞いているうちに、太安万侶は、あまりの面白さに、ぐいぐい引き込まれていきました。まるで目の前で神々が活き活きと動いて、語りかけてくるようでした。

「いや~アマテラスさま、いいですねえ~♪
ここでもうちょっと、アマテラスさまに活躍させませんか?」

「や…安万侶殿…」

なんて言ってたかもしれませんね。

『古事記』の完成

4か月後の712年正月。

作業を終えた太安万侶は、元明天皇に上・中・下巻からなる『古事記』を献上しました。上巻には神話の時代の物語、中巻は初代神武天皇から応神天皇、下巻は仁徳天皇から推古天皇までを記します。

稗田阿礼も太安万侶も、感無量という感じで息をついたかもしれませんね。彼らのおかげで今日私たちがアマテラスオオミカミやオオクニヌシノミコトの活躍を楽しめるわけです。

『日本書紀』の編纂

対して『日本書紀』は681年に天武天皇がその編纂を命じ、川島皇子らを中心に編纂事業がすすめられました。後には太安万侶も加わったと見られています。

『古事記』が成立した8年後の720年(養老2年)、天武天皇の皇子・舎人親王(とねりのみこ)によって『日本書紀』は元正天皇に献上されました。

『日本書紀』の詳しい成立過程はわかっていませんが、藤原不比等の意向が強く入っていると見られています。

天智天皇に仕えた鎌足(不比等の父)の業績が必要以上に大げさに語られていること、蘇我氏が故意に悪役に仕立てられていることなど、「藤原氏の正当性」を語ろうという強い作為が見えます。そのような作為を行う動機があり、権限があるのは藤原不比等くらいだからです。

たとえば途中経過を不比等に報告すると、

「こんなのはいかん。父鎌足を、もっと正義の味方に描いてもらわんと。 悪役は蘇我氏なんだよ」

とまあ、そこまでロコツで無いにしても無言に圧力を加えてきたのかもしれません。

『古事記』と『日本書紀』の違い

なぜほぼ同時期に二つの歴史書が編纂されたのでしょうか?それは編集目的の違いによると言われています。

『古事記』は国内向けに天皇家の正当性を訴えるのが目的で、『日本書紀』は海外向けに日本という国の成り立ちを語るのが目的だったと見られています。

その編集目的の違いは文章や章の組み立てにもあらわれています。

『古事記』は漢文に基づきながらも日本式の音読み・訓読みを採り入れて書かれています。日本国内に向けて書いたものだということがわかります。対して『日本書紀』は純粋な漢文のみで書かれ、海外ことに中国に対して「わが国の歴史はこうですよ」と示す意図が色こく出ています。

このように文章や章の組み立ての上にも、『古事記』と『日本書紀』の編集目的の違いがあらわれています。

大伴旅人と隼人の乱

解説:左大臣光永

■解説音声を一括ダウンロードする
■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル