桓武天皇(四)天下の徳政

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こんにちは。左大臣光永です。木々の緑もいよいよ濃く色づく昨今、いかがお過ごしでしょうか?

まずは講演の告知です。

■5/19 静岡「声に出して読む 伊勢物語」
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■6/17 京都「声に出して読む 小倉百人一首」
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

本日のメルマガは、「桓武天皇(四)天下の徳政」です。

桓武朝が抱える問題

桓武天皇とその政権にとって頭の痛い問題がありました。それは、

「もうやってられない。
生活できねえよ!」

「おいら一抜けた!」

などと、土地から逃げ出し、浮浪民となる者が多く出ていたことです。

二度の都造りと蝦夷との長期にわたる戦争で、農民は疲弊しきっていました。そこで、国家から支給された口分田を手放し、宿無しになる者が多く出ました。税収は減るわ、治安は悪くなるわで、大問題です。

逃げ出した農民の多くは、大貴族・大寺社・有力農民の領土に逃げ込み、そこで小作人となって土地を開梱し耕すようになります。後の荘園につながっていくものです。

律令国家の建前は「公地公民」です。土地と人民は国家のもの。私有は認めない、と。しかしその建前は大化の改新後、早くからゆらぎ、桓武天皇の時代にはもうガタガタになっていました。

なんとか浮浪民を食い止めようと税を減らしたりもしましたが、もともとの搾取がひどすぎるので、ちょっと減らしたところでどうなるものでもありませんでした。

浮浪民の増大。公地公民制の崩壊。これらは桓武政権にとって、まことに頭の痛い問題でした。

勘解由使(かげゆし)

平安京における桓武天皇の政策のうち、重要なものを述べていきます。

まずは勘解由使(かげゆし)の設置。

国司の引き継ぎ事務において、前国司と新国司の間で問題が生じることが多くありました。

国司はたいてい帳簿をごまかして私腹を肥やすので、帳尻があわなくなるのです。そこで前国司と新国司の間で言い分が食い違い、引き継ぎがうまくいかない、という問題が生じていました。

引き継ぎは120日と決まっていたが、それを過ぎることも多くりあました。これが国政に支障をきたしていました。

これを解決するために設置されたのが勘解由使です。勘解由使は前国司と新国司の言い分をきいて、判決をくだす役割をにないました。

軍団兵士制・防人の廃止→健児(こんでい)制度

そして健児(こんでい)制度。

桓武朝のはじめに軍団兵士制(徴兵制)を廃止し、防人も廃止しました。東アジアの情勢は大化の改新の頃のような緊張はなくなってきていました。

国外に対して全国レベルで兵士を集め防衛にあたる必要は低くなっていました。そこで民衆の負担を減らす意味からも、軍団兵士制・防人の廃止となりました。

かわって、郡司の師弟を少数精鋭で「健児(こんでい)」としてかりだし、兵力としました。大勢かき集めるシステムから、少数精鋭に。軍事のやりようが、かわったわけです。

遣唐使

そして遣唐使の派遣。

桓武は遣唐使を派遣しました。光仁天皇の時代から24年を経ていました。遣唐大使に藤原葛野麻呂(かどのまろ)、副使に石川道益(いしかわのみちます)を任命。準備期間を経て803に送り出しました。しかし暴風雨で中止となりました。

翌804年の遣唐使はうまくいきました。無事に中国にわたり、たくさんの経典を書写し、平安京に戻ってきた。第一船には空海が、第二船には最澄が乗っていましたが、この時点で二人が顔合わせしていたかは定かではありません。

衰えゆく桓武

延暦24年(804)暮から桓武は病気にかかります。罪人を赦免したり、恩赦をほどこしました。また早良親王を祀る寺を淡路島に建てました。遣唐使帰りの最澄に密教の修法(すほう)を行わせます。藤原種継暗殺事件で処罰された大伴家持らの位階を復活させたりもしました。しかし、ききめはありませんでした。

「いよいよわしも最期か…」

天下徳政相論

延暦24年(805)、桓武天皇は参議藤原緒嗣(おつぐ)と参議菅野真道(すがのの まみち)両名を内裏に招き、中納言藤原内麻呂のもと「天下の徳政」について議論させました。

つまり、どうやれば民はすみやすくなるのか、ということを。

藤原緒嗣は「今問題なのは軍事と造作です。これをやめれば、天下の人々は住みやすくなります」。軍事とは先帝光仁天皇の時代から続いている蝦夷との戦い。造作とは平安京の都づくりのこと。この意見に対して菅野真道は反論するが、桓武は藤原緒嗣の意見を容れました。

桓武天皇は死を直前にして、みずからの非を認めたわけです。

ほどなく蝦夷との戦いは終わり、平安京の都づくりを行った造宮省が廃止され、都づくりは終了しました。

死の近いことを悟った桓武は自分の代での仕事を整理し、次世代にたくそうと考えたのでしょう。

延暦36年(806)3月、桓武は帰らぬ人となります。享年70。桓武はいまわの際まで帝位を退きませんでした。これは古代の天皇としては稀有な例です。皇太子安殿親王は父の崩御を知って立ち上がることもできなかったと伝えられます。

天皇徳度高峙(こうじ)にして、天姿嶷然(てんしぎょくぜん)たり。文華(ぶんか)を好まずして、遠く威徳を照らす。宸極(しんきょく)に登りてより心を政治に励まし、内には興作(こうさく)を事として、外には夷狄(いてき)を攘つ。当年の費えと雖(いえど)も、後世の頼りなり。

『日本後記』延暦二十五年四月七日条

天皇は徳は高く、その姿は立派であった。詩や文章の華麗さは好まなかったが、遠くまでその徳は伝わっていた。御即位されてからは一心に政治に取り組み、内には都の造営、外には夷狄を征伐した。天皇の働きは「当年の費」その時代のみに限って言えば人々の負担となったが、「後世の頼り」後の世まで頼りとなる、礎を築いたのであった。

翌4月、皇太子安殿親王が平城天皇として即位。平城の弟の神野親王が皇太子に任じられます。後の嵯峨天皇です。

桓武の遺骸はいったん山城国紀伊郡柏原山陵に埋葬され、半年後に現京都市伏見区の柏原陵(かしわばらのみささぎ)に遷されました。なぜ陵が遷されたかは不明です。なにごとか争いがあったようです。


桓武天皇 柏原陵


桓武天皇 柏原陵

解説:左大臣光永

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