後醍醐天皇の再起
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隠岐の後醍醐天皇
正中の変・元弘の変と二度にわたり討幕計画をはばまれた上、隠岐島に流された後醍醐天皇でしたが、まだ諦めてはいませんでした。
隠岐島
「必ず京都に戻り…討幕を成し遂げるのだ!」
都では後醍醐天皇に替わって、持明院統の光厳天皇が即位し、元号も「正慶(しょうきょう)」と改められました。しかし後醍醐天皇は、そんなもの認めぬと、引き続き「元弘」を使い続けました。
護良親王の挙兵
そしてもう一人、しぶとい男がいました。
大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよりしんのう)。後醍醐天皇の皇子です。以前は天台座主を務め尊雲法親王と呼ばれていましたが、還俗して護良親王となっていました。父後醍醐天皇が笠置山で戦っている前後は、吉野や戸津川沿いに潜伏していました。
※ちなみに「もりなが親王」と覚えている方もいらっしゃるかと思います。昔は「もりなが親王」と読んでいましたのですが、今は「もりよし親王」と読むのが一般的になっています。
「討幕のため、立ち上がってほしい。どうか手を貸してくれ」
護良親王は畿内の武士や、高野山の僧徒たちに令旨を発し、呼びかけていたのです。呼びかけに応じて次々と人が集まります。こうして討幕のための組織は大きくなっていきます。
楠正成 渡辺へ
そして、もう一人、不屈の闘志を燃やす男がいました。
楠正成です。
前の合戦で奪われた赤坂城を奪い返すと、翌元弘3年(1333年)正月、摂津天王寺から渡部に軍を進めます。
楠正成 渡辺へ
六波羅探題 動く
護良親王および楠正成挙兵の知らせを受けて六波羅探題では、畿内の武士たちを招集します。
「護良親王と楠正成を捕えよ!」
宇都宮公綱率いる討伐軍を楠正成の立てこもる天王寺に差し向けますが、正成は、
「まともに戦うことは無い。退けッ」
ただちに金剛山(こんごうせん)に撤退。そんなことをしている内に護良親王の令旨を受けた武士が播磨で、紀伊で、大和で、伊代で、次々と討幕に立ちあがり、幕府軍は苦戦を強いられることとなりました。
鎌倉 動く
「ええい、六波羅は何をしているのだッ!
もはや六波羅だけに任せてはおけぬ!!」
鎌倉では、東国の軍勢をかき集め、元弘3年(1333年)正月後半、西に向かわせます。東国の軍勢は畿内各地の軍勢とともに京都にいったん集まると全軍を三手に分け、正月末、赤坂城、金剛山、吉野山をそれぞれ目指し、出撃します。
幕府軍の攻撃
「よいかッ!大塔宮を捕縛、もしくは殺した者には恩賞が出るぞ!
楠正成を殺した者も、恩賞は思うがままぞ」
ウォーーーッ
大いに士気を上げる、幕府軍。
吉野山へ向かった一軍は二月初めに吉野山を攻撃。
ワーーッ、ウオーーーッ…
ものすごい勢いで攻め立てます。
「うぬぬ…腐っても坂東武者…。
頼朝公の時代の勢いは失ってはいないということか…」
「宮さま、お逃げくだされ!私が身代わりになります」
「すまぬ…」
護良親王は吉野を放棄。高野山へ逃げ込みました。
赤坂城に向かった一手は、2月22日から攻撃を開始しました。始めは苦戦するも、城内へ水を引く樋を発見したのでこれを絶つと、大将平野将監(ひらのしょうげん)以下、全員が降参。京都で首をはねられました。
千早城の戦い
そして金剛山の千早城(ちはやじょう)では、楠正成の本隊が立てこもっていました。そこへ、大仏家時(おさらぎいえとき)率いる幕府軍が、ついで吉野、赤坂に向かった手が合流し、2月下旬。三方から攻め寄せます。
千早城址
千早城址
「このような小城、何ほどのものか、
一気に落としてしまえーーーっ」
ワーーッ、ウオーーーッ…
攻め寄せる幕府軍に楠軍は高櫓の上から、ごろっ、ごろごろっ、
ごろごろごろごろーーーーっ
ぎゃああーーー
べっしゃーーー
大石を落とし、ひるんだ幕府軍に、
ひゅんひゅんひゅん
雨のように矢を浴びせかけ、一日に五六千人の死者を出しました。
「ならば、赤坂城の時と同じく、水を絶つのだ」
幕府軍は千早城への水を絶つため、水源の谷川で待ち伏せしますが、これを先に読んでいた楠正成は戦利品を奪い、
「アホちゃうか。マヌケもマヌケ。それが鎌倉の御家人ですか」
幕府軍をさんざんにバカにします。
「おのれ楠ごときが」
激怒した幕府軍が追ってくると、待ち構えていた楠軍が崖の上から大石を落とし、ぐぎゃあーーと幕府軍は押しつぶされました。
千早城 兵糧攻め
「楠正成はあなどれなぬ。ここは長期戦の構えである。時間をかけて兵糧攻めにするのだ」
しかし兵糧攻めはとにかく退屈でした。幕府軍は退屈しのぎに連歌や碁・茶の湯に興じます。防ぐ側の楠軍もダレてきました。
「ならば!」
楠正成は一計を案じます。藁人形を二三十体作り、甲冑を着せ、その前に楯を置き、夜のうちにズラッと並べておきました。
そして夜がほのぼのと明ける頃、わあーーーっ!鬨の声を上げます。はっと驚いた幕府軍が千早城を見上げると、多数の人影が見えます。
「ついに死にもの狂いで討って出てきたな。それこそ望む所」
わあぁーーーっ
人形を本物と思って攻め寄せる幕府軍。楠正成は、じゅうぶんに幕府軍の大軍を引き寄せておいて、
「それっ!!」
どかっ、どかどかどかーーーっ
大石を四五十個、一度に放ちます。
「ぐわあああ!」
「ぎゃああ」
幕府軍三百余人は押しつぶされて死に、半死半生の者は五百人を数えました。
……
『太平記』にはこのように、千早城における楠正成の奇想天外な戦いぶりが描かれています。わかりやすくするため現代語でお話ししましたが、『太平記』の原文はこれよりはるかに、はるかに面白いです。ぜひ原文で読んでみてください。
しかし、言うまでも無く『太平記』は文学作品であり、フィクションです。特に千早城の戦いは、講談調に面白おかしく書かれています。すべてが事実とはとうてい考えられません。
しかし戦前は『太平記』のこうした記述だけを根拠に「忠臣楠正成の知略」ということが、大真面目に教えられてきたわけです。
後醍醐天皇 船上山に再起
楠正成の奮戦、そして護良親王の令旨により全国の武士が討幕に立ちあがっていることは、隠岐の後醍醐天皇のもとにも伝わっていました。
「今こそ、再起の時!」
元弘3年(1333年)閏2月24日、後醍醐天皇は側近の千種忠顕(ちぐさただあき)一人を伴ってひそかに隠岐の島を脱出。その日の夕刻には伯耆(鳥取県)の名和湊に上陸します。
後醍醐天皇 隠岐を脱出、船上山へ
そして伯耆の豪族名和長年(なわながとし)の手引きで近くの船上山(せんじょうざん)に入った後醍醐天皇は、ここを行在所と定め、全国の武士に綸旨を発します。
船上山
「我に味方して討幕に力を貸せ」
がぜんいきり立つ、全国の武士たち。
「主上が決起なされた!」
「もう鎌倉の好きにはさせん!」
「主上のもとにはせ参じろ!」
ぞくぞくと、船上山に味方が集まってきました。
次回「足利高氏の挙兵と六波羅探題の滅亡」に続きます。