正中の変
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後醍醐天皇の親政
元亨元年(1321年)後醍醐天皇が親政を開始します。これに先立つ4年間は後醍醐の父後宇多上皇が院政を行っていたのですが、この年、後宇多上皇は幕府に申請して院政をやめたいと申し出て、ついに後醍醐天皇による親政開始となったのでした。
後醍醐天皇は当時の天皇としては高齢の34歳になっていました。
「やってやる。乱れた時代を、わしが終わらせるぞ」
後醍醐天皇はおそらく即位の時点から討幕の意思を持っていたものと思われます。自分の子孫に安定して帝位を継承させる。そのためには両統迭立を建前とする幕府が邪魔です。
幕府がいる以上、両統迭立の建前にのっとり、大覚寺統→持明院統→大覚寺統→持明院統と、交互に天皇を出さねばなりません。それでは子孫に安定して帝位を継承させるなど、ムリな話です。
だからこそ、後醍醐は何よりも自分の子孫に安定して帝位を継承させるために、幕府が邪魔であり、即位のはじめから討幕の意思を持っていたと考えられます。
後醍醐天皇が討幕を思い立った理由は他にもあります。後醍醐天皇が熱心に学んでいた宋学は儒学の一派で、君主と臣下のけじめを重く説く学問でした。宋学の教えからすると、本来臣下である幕府が朝廷をないがしろにしている現状は、許しがたいものでした。
親政開始早々、後醍醐天皇は精力的に政務に取り組まれます。まずは記録所の設置です。これは天皇のもとで裁判をすみやかに行うための機関でした。
そして、側近の日野資朝(ひのすけとも)・日野俊基(ひのとしもと)両名は学問にすぐれ、特に儒学の一派である宋学に通じていました。
「主上、孔子・孟子の教えを今に蘇らせるには、天子が直接政治を行わなくてはダメです。幕府ではなくて!」
「ふむ、幕府ではなくて、か…」
そんなやり取りもあったかもしれません。
日野資朝・日野俊基らの「無礼講」
『太平記』によると、日野資朝・日野俊基ほか3名はひそかに北条氏打倒を目論んでいましたが、討幕となると貴族だけでは無理。武士の力添えがいるということで、土岐十郎頼貞(ときじゅうろうよりさだ。または頼時)・多治見国長(たじみくになが)の両名に目をつけます。
しかし、いきなり言って裏切られたらまずい。その心根をためそうということで、「無礼講」という酒宴の席を設けます。その有様を言えば、
身分の上下を問わず男は烏帽子を脱いで髻を放ち、法師は衣を着ずに白衣になり、年十七八の美少女が二十人あまり、薄絹の単衣(ひとえ)だけを着てとっとっとっとと酒を注ぐと、お、おお~たまらんのう、これもそっと寄れ、あ、いやそんな、もそっとよいではないか。あっそんな…こういう、実にけしからん宴会の席を持ちつつ、
土岐十郎頼貞殿、多治見国長殿、武勇の誉高いご両名をお招きしたのは他でもない。世を乱しているカンゾク・北条氏についてです。なんと畏れ多い。いいえ、ご両名はもうお気づきのはず。
孔子・孟子の教えを現代によみがえらせるには、天子による親政を置いて他にない。ならば鎌倉の幕府は邪魔であると。どうか、お力を貸していただきたい…。そ、そのような大事を我々に。そこまで我々を買っていてくださったか!
そんな感じで、討幕の仲間に引き込んだという話が『太平記』に描かれています。
後宇多法皇の崩御
元亨4年(1324年)6月、後宇多法皇は大覚寺で崩御しました。
(ようやく逝って下さったか…)
ひそかに胸をなでおろす後醍醐天皇。晩年の後宇多法皇は息子後醍醐天皇と対立していたようです。なぜ対立したのか。その内容はわかりませんが、後醍醐の討幕の意思に気づいた後宇多が、直接あるいは間接に、後醍醐に討幕を思いとどまらせようとして、働きかけていたのかもしれません。
ともかく、父後宇多法皇が崩御したことで後醍醐はいよいよ自由に行動できるようになり、討幕の意思を確固たるものにしていきました。
正中の変
ところが、討幕計画はあっけなく六波羅探題に発覚します。
計画に誘われていた一人土岐左近蔵人頼員(ときさこんくろうどよりかず)が直前で恐ろしくなり、舅である六波羅奉行人・斎藤俊幸(さいとうとしゆき)にすべてを打ち明けたのです。
その計画とは!
来る9月23日の北野神社の祭りではしょっちゅう喧嘩が起こり六波羅探題の武士が出動する。そこで手薄になった六波羅探題に攻め寄せ、南都北嶺の衆徒(僧兵)をもって宇治・瀬田を固めてしまうというものでした。
「けしからん!謀反人どもを捕えろッ!!」
元亨4年(1324年)9月19日早朝、六波羅探題に武士たちが集結し、一手は三条堀河の土岐十郎頼貞の屋敷へ、一手は錦小路高倉の多治見国長の屋敷へ向かいます。
1324年 正中の変
「謀反人、土岐十郎頼貞、多治見国長、覚悟せよーーーっ」
「ぐぬおっ、ばれておったかあーーーっ」
キン、カカン、キーン
「無念…」
どたっ。
土岐十郎頼貞も多治見国長も一戦交えて果てました。共に「無礼講」に誘われていた者でした。
「六波羅にばれていただと!まずい!
主上の御身に危険が及びかねん…!
それだけは、何としても避けねばならぬ…!!」
日野資朝と日野俊基は、それぞれ六波羅探題に出頭しました。両名は六波羅探題で拘束され、取り調べを受けますが、計画の黒幕が天皇であることは固く口を閉じて話しませんでした。ついで両名は幕府の裁きを受けるため鎌倉へ護送されます。
「すべて、私どもの独断でやったことです!!」
「ううむ…」
鎌倉では、日野資朝と日野俊基両名をどうするか、話し合います。結果、天皇の追及まではしないこととなりました。日野俊基は無罪放免。日野資朝は死罪にすべき所を免じて佐渡へ配流とされました。
1324年のこの事件を「正中の変」といいます。当時鎌倉では「当今御謀反(とうきんごむほん)」(天皇による謀反)などと言われました。
次回「奥州安東氏の乱」に続きます。