平頼綱の恐怖政治と平禅門の乱
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得宗権力の確立
安達氏が滅亡したことにより、北条嫡流家に対抗しうる有力御家人は、完全にいなくなりました。将軍直参の「外様御家人」の勢力は失われ、北条氏の家臣である「御内人(みうちびと)」が権力を握ることとなりました。
ここに、北条氏と有力御家人との長きにわたる武力抗争は終焉を迎えます。その歴史を振り返ってみましょう。
古くは頼朝没後まもなく、北条時政の陰謀により梶原景時が討たれ、次期将軍擁立をめぐって比企能員が討たれ、
畠山重忠が討たれ、二代執権義時の時代に入り和田義盛が討たれ、
五代執権北条時頼の時代には宝治合戦にて三浦氏が討たれ、
そして九代執権貞時の時代に至り、最後の敵ともいえる安達氏が討たれたのです。
もはや、北条嫡流家に対抗しうる有力御家人は無くなりました。
以後、鎌倉幕府の滅亡まで、このような武力闘争は起こっていません。
平頼綱の専制
霜月騒動の後、実権を握ったのはもちろん平頼綱です。
「前の騒動では人を殺しすぎた。仏門に入って罪を掃うとしよう」
…という判断だったかどうかは、わかりませんが、頼綱は権力を掌握するとすぐに出家して平禅門(へいぜんもん)と呼ばれます。
城入道(安達泰盛)、誅せらるるの後、彼の仁(平頼綱)、一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なし
安達泰盛が滅ぼされてから、平頼綱がひたすら専制政治を行い、だれもがただ恐れる他のことはなかった。
一般に、平頼綱の時代は、このように恐ろしい恐怖政治だったと言われます。特に、北条氏の「御内人」を使って将軍直参の「外様御家人」の行動を厳しく監視させました。
しかし一般民衆にとってはどうだったのか?伝える資料はあまりありません。
頼綱の行ったことで特筆すべきことは、将軍を交代させたことです。
七代将軍惟康(これやす)親王(宗尊親王の子)は臣籍に降下し、源氏を名乗っていました。源氏の政権は滅んだといっても東国武士にとって結束の象徴だったのです。そのため源氏のブランドは大切だったのです。
ところが頼綱はもはや源氏などいらぬ、むしろ天皇家とのつながりを強めようという考えでした。そこで弘安10年(1287年)頼綱は、惟康親王をふたたび親王に戻す許可を朝廷に申請し、許されます。
さらに正応2年(1289)年9月、惟康(これやす)親王を京都に追放し、翌10月、後深草上皇の第六皇子久明親王を、八代将軍として鎌倉に迎えました。将軍の人事すら好き放題に操る男でした。
平禅門の乱
一方、北条貞時は、執権に就任した時は14歳でしたが、今や23歳。もはや平頼綱の言いなりの操り人形ではありませんでした。
「平頼綱の権勢は日に日に高まっている…これはまずい。
鎌倉の危機だ…」
なんとかせねば。その思いを高めていました。
永仁元年(1293年)4月21日深夜、事件は起こります。
平頼綱の嫡男宗綱が執権北条貞時に、密告します。
「父と弟の助宗(すけむね)が企んで、いずれ弟の助宗を将軍の位につけようとしています」
「なんじゃと?」
貞時は迅速に行動します。翌22日未明、武蔵七郎など北条一門の者を、平頼綱の経師ヶ谷(きょうじがやつ。材木座二丁目)邸に差し向けました。
ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、
どしゅっ、どしゅっ、どしゅっ
不意を突かれた平頼綱・助宗父子は、なすすべもありませんでした。
「おのれ北条貞時、誰のおかげで偉くなったと思っているのだ!!!無念…」
平頼綱父子は炎の中、自害して果てました。
「私は、父とは違うんだ、たた、助けてくれえ」
最初に密告してきた平宗綱は無実を訴えましたが、捕えられ、佐渡へ流されました。しかし後には許されて鎌倉に戻され、内管領(うちのかんれい)に就任しています。
平左衛門地獄
室町時代。義同周心(ぎどうしゅうしん)という禅僧が、かつて平頼綱の領地のあった熱海温泉を訪れました。その際、地元の僧から聞いた話が伝えられています。
いわく、熱海の平頼綱の別荘は、頼綱が討たれるた時にズブズブと地中に沈んでしまった。お、恐ろしい。平左衛門はいっぱい殺したからのう。地獄に落ちたのじゃ。そうじゃ、これは平左衛門地獄じゃ。人々はそんなふうに、言い合ったと。
そんな話が死後何十年経っても伝えられるほど、平頼綱の恐怖政治の記憶は根強いものがあったのです。
次回「北条貞時の幕政改革と永仁の徳政令」に続きます。