五代執権 北条時頼
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北条泰時の死
1242年(仁治3年)名執権とたたえられた北条泰時が病にかかり、一か月半にわたる闘病生活の末に世を去ります。病気にともない出家していましたが、助かりませんでした。過労に赤痢が加わっていたともいわれます。享年60。
その功績は内には御成敗式目を定めたこと。外には京都に対しての強硬外交により鎌倉の優位を確立したことにありました。
泰時の嫡男の時氏は早くに没していたので孫の経時が四代執権に就任しました。まだ19歳という若さでした。もう一人の執権は置かれず、多数の長老たちが政所別当として経時を補佐しました。
この執権交代劇に際し、後継者争いが起こったようですが『吾妻鏡』には記述を欠き、詳しい内容がわかりません。
しかし、義時のすぐ下の弟の名越朝時(なごえともとき)が泰時の死の直前に出家させられています。おそらく執権就任を狙って何らかの動きをしていた所を、抑えられたのでしょう。そして裏で糸を引いていた黒幕は将軍九条頼経だったと推測されます。
頼経は健保7年(1219年)二歳の時京都から鎌倉に連れてこられ、嘉禄2年(1226年)9歳で将軍となってから18年。今や立派な青年に成長していました。いかにお飾りとはいえ、長年にわたって鎌倉殿をやっているのです。頼経の周辺には頼経派が出来上がっていました。
「鎌倉殿、北条などに好きにさせてはなりません。何が執権ですか。
今こそ将軍家の権威を、執権から取り戻す時です」
「うむ。北条はつぶすか」
そんなことを話し合っていたと思われます。
九条頼経の引退
しかし、新しく就任した四代執権北条経時は、すでに頼経の意図を見抜いていました。
経時が執権就任後2年目の1244年(寛元2年)将軍九条頼経は将軍の位を追われ、かわって息子の頼嗣(よりつぐ)が五代将軍に任じられます。
この将軍交代劇は、『吾妻鏡』によると悪天候が続くことを頼経が我が不徳の致す所といって将軍の位を下りることを考えたとなっていますが、実際は北条経時により強引に引きずりおろされたものと思われます。
「おのれ北条。吾をないがしろにして…」
怨みを抱いて将軍の位を下りた頼経は、何度か京都にもどることを予告するも、そのたびになぜか延期になり、鎌倉に留まり続けました。そして大殿(おおとの)もしくは「前大納言家」と呼ばれ隠居後も、いわば上皇のように政治に影響力を持ち続けました。
北条経時から北条時頼へ
この頃から北条経時は病にかかり、1246年(寛元4年)病床にて弟の時頼に執権職を譲り、一か月後、亡くなります。享年23。経時病に際して鎌倉で何事か陰謀があったようですが『吾妻鏡』は何も語りません。
さて、時頼が五代執権に就任したといっても、認めない者たちが多くありました。「大殿」九条頼経とその取り巻き。それに北条氏の分家名越一族です。どちらも権力をほしいままにする北条得宗家に怨みを抱いていました。
北条庶家
「自分は北条義時の孫だから、曾孫である時頼よりも執権にふさわしいと思います」
「その通りじゃ。そちが執権になった曙には、我を将軍として大事にしてくれるか」
「当然でございます」
こうして前将軍九条頼経と名越一族、それに加担する者たちが結びつき、鎌倉はにわかに騒然としました。
宮騒動
執権に就任した北条時頼は、将軍九条頼経とその取り巻きを、積極的に威嚇します。
寛元4年(1246年)閏4月18日、北条時頼は母の兄である安達義景とともに武装した兵を率いて鎌倉中を駆け回ります。翌日も、そして三日目には各地から御家人たちが集まり、鎌倉はにわかに騒然とします。ついで5月22日、甘縄の安達義景邸でも武装した兵士たちが騒ぎ立てました。
「我らにたてつくと、ただではすまぬぞ」
という、九条頼経派に対する意思表示です。
5月24日、名越流北条光時が九条頼経邸に入ると、ソレッと北条時頼派の武士たちが九条頼経邸に押し寄せ、取り囲みます。「宮騒動」の始まりです。
「ななっ、周りを固められておる」
「まるで謀反ではないか!おのれ時頼…」
しかし、北条時頼の言い分ではこれは将軍家に対する謀反ではありませんでした。あくまで、北条宗家にたてつく名越流北条光時(名越光時)を処罰するのが目的。いわば「将軍さま」のまわりの「君側の奸」を取り除くという形を取っていました。
「もはや勝ち目は無い…」
すでに蟻一匹抜け出せる状態ではありませんでした。名越光時は弟時幸とともに髪をおろし出家して、投降しました。また同じく九条頼経派の藤原定員は安達義景に囚人として預けられることとなりました。
しかし敵の本命は、名越一族でも九条頼経でもなく、鎌倉最大の有力御家人・三浦氏でした。
6月6日。三浦の当主・三浦泰村が、弟家村を使者として北条時頼に面会を求めます。
「誓って、三浦は執権殿に背くつもりなど、ございません!」
しかし、時頼は直接は会わず、部下の諏訪盛重を遣わして問答をさせました。注意深く三浦の出方をうかがうのでした。
諏訪盛重と三浦との間でどのような問答があったは不明です。が、結果的に三浦一族は「北条時頼とは戦わない」と判断しました。
戦うと損になると考えたのです。損になると思わせたことが、時頼の手腕でした。
「よかった。三浦は鉾をおさめたか…」
九条頼経の追放
ついで北条時頼は、前将軍九条頼経を鎌倉から追放します。
「鎌倉はなにかと騒動がございますので、大殿には京へお戻りいただきたく」
「なに!吾を追い出すというのか。ぐぬぬ。執権ふぜいが生意気な」
「いえいえいえ、あくまで大殿の御身の安全のためでして」
いくら言い合っても、実力は北条氏にある事実は動きませんでした。
1246年(寛元4年)7月。
前将軍九条頼経は鎌倉を後にし、京都へ向かいました。以上の騒動を「宮騒動」と呼びます。
九条頼経は2歳の時に京都から鎌倉へ連れてこられ、今回27年ぶりの帰京となりました。
粟田口から京都に入った一向は、六波羅探題北条重時に迎えられます。
「ようこそ京へお戻りいただきました」
「ふん…わしは追い出されたのじゃ」
「わが君、お痛ましや…!!
必ずわが君を、鎌倉にもう一度お連れいたしますぞ…」
頼経の御簾に取りすがりよよと涙を流したのは三浦光村です。この翌年の宝治元年、三浦一族は北条時頼の鎌倉幕府と戦い、亡びることになります。
以後、九条頼経は北条重時の館若松殿に住み、1256年(康元元年)亡くなるまで、二度と政治にかかわることは許されませんでした。
一方、九条頼経が京都へ送り返されたことで非常な恐怖を感じている人物がいました。
前摂政九条道家。九条頼経の父です。前摂政九条道家は京都にあって、鎌倉から疑いをかけられることに恐れをなしていました。なにしろわが子頼経が鎌倉に害をなしたというので京都に送り返されてきたのです。自分にもとばっちりが来ることは必定でした。
「私は、誓って、今回の陰謀は、知らないし、聞かないし、
あらゆる神仏に誓って、潔白です!」
そう起請文を書いて、鎌倉に送りました。しかし九条道家は関東申次の職務を罷免され、息子の実経(さねつね)は摂政を解任されました。道家は鎌倉の追及を考えてか、西山に隠棲してしまいます。
建長4年(1252年)2月、九条道家が亡くなります。翌3月、九条頼嗣が将軍職を解任され、京都に送り返されます。頼嗣は時頼の妹の檜皮姫を妻として迎えていましたが、それもどうにもなりませんでた。やがて康元元年(1256年)九条頼経が亡くなり、ほどなく頼嗣も亡くなりました。
九条家の鎌倉に対する影響力は完全についえました。
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