頼朝から頼家へ
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本日は「頼朝から頼家へ」。大姫入内問題・建久七年の政変・頼朝の最期・頼家の二代将軍就任と、十三人合議制などについて語ります。
平家を滅ぼし、奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉の主となった源頼朝にとって、最後の課題は朝廷工作でした。
長女大姫を後鳥羽天皇の後宮に入れるため、かつての盟友・九条兼実を見限り、旧後白河派の源通親らに接近します。
前回「曾我兄弟の仇討ち」からのつづきです。
源頼朝 二度目の上洛
健久六年(1195年)2月14日、源頼朝は御台所の政子、長男万寿(頼家)、長女大姫をともない、多数の御家人を引き連れて鎌倉を出発します。
表向きの目的は治承四年(1180)平家によって焼失させられた東大寺の大仏の再建供養の儀に列席することでした。
しかし頼朝の真意は、長男頼家を後継者としてのお披露目することと、長女大姫の入内をすすめることにありました。
三月十二日、東大寺大仏殿の落慶供養の儀が行われ、頼朝も列席しました。折悪しく激しい雨が降ってきましたが、東大寺の内外には頼朝配下の武士たちが警護につき、威風堂々としたものでした。
このとき慈円は、大雨の中濡れるのもいとわず警護に当たる武士の姿に畏怖の念を抱いています(愚管抄)。
大姫入内工作
今回の上洛は実に141日間におよびましたが、そのうち100日を頼朝は京都(自邸は六波羅)に過ごしました。
当時、宮中では年少の後鳥羽天皇を補佐して、関白九条兼実が実権をにぎっていました。
その一方で、兼実に敵対する旧後白河派の丹後局や源通親が機会をうかがっていました。
頼朝は当初、関白九条兼実を頼っていましたが、しだいに旧後白河派の丹後局・源通親に接近するようになっていきます。
丹後局を六波羅の自邸に招き、妻政子・長女大姫と引合せ、銀の蒔箱に砂金三百両をおさめて、贈り物します。
「どうか大姫入内の件、よろしくお願いします」というわけです。
後鳥羽天皇にはすでに九条兼実の娘、任子が入内しているので、そこに頼朝の娘が入内するとなると、中宮の座をめぐって競合となります。
このことからも、頼朝は当初協力関係にあった九条兼実から離れ、旧後白河派の丹後局・源通親に接近していきました。
頼朝としては、「大姫入内」という美味しい果実をつかむためには、どちらを味方につけたらいいのか?
関白九条兼実か、旧後白河派の丹後局・源通親か、双方をはかりにかけた結果、後者のほうがよい、と見たのでしょう。
建久七年の政変
建久六年(1195)8月、九条兼実の娘で、後鳥羽天皇の中宮となっていた任子が出産します。しかし九条兼実の期待に反して生まれたのは女子(昇子)でした。
同年11月、後鳥羽天皇に宮仕えしていた源通親の養女・在子(ざいし)が皇子為仁(ためひと)を生みます。後の、土御門天皇です。
建久七年(1196)、ついに九条兼実は源通親と丹後局によって失脚に追い込まれました。「建久七年の政変」です。
任子が内裏を追放され、兼実は関白を罷免され、兼実の弟慈円も天台座主を辞任するはめになりました。九条家は、その政治地盤を失いました。
さらに源通親は、兼実を流罪に追い込もうとしましたが、これは後鳥羽天皇が反対したため、実現しませんでした。
この事件において頼朝は、九条兼実を助けまなかったばかりか、九条兼実が追放されることを承認していました。
頼朝としては兼実との関係を断ち切ってでも、源通親・丹後局に取り入り、大姫の入内を成功させたかったようです。
それまで九条兼実とくっついていたのが、源通親・丹後局に乗り換えたというわけです。大姫を入内させるために。
当時、京の町中では「罷免後の兼実邸に出入りする者は頼朝からのおとがめをうける」とまで噂が流れました。
大姫入内工作の挫折
頼朝がかつての盟友九条兼実を切って、源通親-丹後局と組んだのは、ひとえに大姫を入内させ、天皇との間に皇子を生ませ、天皇の外戚になることが目的でした。
これは平清盛が娘徳子を高倉天皇に嫁がせ、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ天皇家の外戚としての地位を得たのとまったく同じやり方です。
平家を滅ぼした頼朝が平家と同じやり方で権力をのばそうとしたのです。
源氏の棟梁「鎌倉殿」として関東に君臨しながら、やはり京都を中心とした公家社会のシステムから抜けきれなかった、源頼朝の限界がここに見えます。
しかし、源通親・丹後局は頼朝の思惑どおりに動きませんでした。大姫の入内についてはのらりくらり話をはぐらかしているうちに、
建久八年(1197)7月14、大姫は病の床に倒れます。20歳の若さでした。
「だがまだ三幡がいる」と、頼朝は大姫の妹の三幡(乙姫)を入内させようとはかります。
源通親・丹後局はもちろん取り合いませんでした。
建久九年(1198)正月、後鳥羽天皇は為仁(ためひと)親王に譲位しました。土御門天皇です。
土御門の母は源通親の養女である承明門院(しょうめいもんいん)在子(ざいし)です。ここに源通親は土御門天皇の外戚となり、後鳥羽上皇の院司となりました。世の人が「源博陸(みなもとのはくりく)」(源氏の関白)とよぶほどの権勢をえるに至りました。
ここに頼朝の朝廷工作は完全に挫折しました。
頼朝がかつての盟友・九条兼実を追い落としてまで求めた大姫入内はかなわず、源通親だけが利益を独占する結果となりました。
これはもちろん偶然でなく、源通親-丹後局は後鳥羽天皇と九条兼実を分断し、九条兼実と源頼朝を分断し、すべて自分らにとって都合よく事がはこぶよう工作したのでした。
大姫入内運動は頼朝にとって何一つもたらさなかったばかりか、朝廷における足がかりをすっかり失う結果となりました。大姫入内運動が「頼朝最大の失策」と評されるゆえんです。
策士・源通親。最後にあらわれた敵がたちが悪すぎたといえばそこまでですが…私はやはり、義経の亡霊ではないかと個人的には思うんですね。
いかに天下草創のためとはいえ、身内をあんなふうに死に追いやっては、ロクなことにならないと思います。
大姫 入内工作
後白河法皇は建久3年(1192年)に崩御しますが、その前後から頼朝は長女大姫を、ついで次女三幡を後鳥羽天皇に入内させようとしきりに工作していました。
これは、御家人を統率するのに朝廷の権威づけが必要であり、権威の向上をねらってのものでした。
ただし後鳥羽天皇にはすでに摂政九条兼実の娘任子が中宮として立てられていました。ここへ頼朝が娘を入内させるとなると、中宮の座をめぐって競合となります。
「九条兼実ごときに負けぬ」
頼朝は気をひきしめます。
健久六年(1195年)平家によって焼失させられた東大寺の大仏の再建供養のために頼朝は二度目の上洛を果します。前回と違い、妻政子・長男頼家・長女大姫を伴っていました。
これは頼家の後継者としてのお披露目と、大姫の入内を本格的に実行する意思表示でした。
今回の上洛では後鳥羽天皇つきの女房藤原兼子(けんし)にしきりに引き出物を贈り、後鳥羽天皇のもとにどうかわが娘大姫を入内させてくださいと、根回しをします。
翌健久七年(1196年)九条兼実は源通親(みなもとのみちちか)によって失脚させられます。娘の任子も、中宮の座から下ろされました。もちろん頼朝が糸を引いてのことでした。ようやく大姫の入内が実現する。その下地作りは整った。ほくそ笑む頼朝。
しかしほどなく大姫は病で亡くなり、また頼朝自身も亡くなり、三女三幡も亡くなります。頼朝の朝廷工作は、完全に頓挫していまいました。
一方、源通親は娘在子を後鳥羽天皇に入内させ、後鳥羽天皇と在子との間に生まれた皇子を即位させました。土御門天皇です。頼朝が朝廷工作にやっきになっている脇で、源通親は漁夫の利をさらっていった形となりました。
-->頼朝の死
頼朝は三度目の上洛を計画していましたが、建久十年(1199、4月に正治元年と改元)正月13日、亡くなります。享年53。『吾妻鏡』によると、前年の暮れ、御家人稲家重成が亡き妻を供養するために相模川に築いた橋の供養に参加した帰り、馬から落ちたのが原因とあります。しかし死因は諸説あります。
二代将軍 頼家
頼朝没後、家督を継いだのは長男の頼家でした。
北条政子をはじめ幕府首脳部は、頭を悩ませていました。
「頼家公はいまだ18歳。まだまだ父君の威厳には
遠く及びません。御家人たちが従うかどうか」
政子も同じ懸念を抱いていました。
「たしかに、頼家には頼朝公のような威厳はありません。
それは仕方の無いこと。皆で支えるのです」
十三人合議制
御家人たちはさっぱり頼家に従いませんでした。「俺たちは頼朝公だからしたがってきたんだ。頼家なんか知るか」という空気がありました。とうとう政子も折れます。
正治元年(1199年)、政子はじめ御家人たちは、頼家が直接訴訟に判決を下すこと(親裁)を禁じます。
ついで、13人の有力御家人からなる幕府の意思決定機関を定めます。俗に十三人合議制といわれるものです。その人員構成は、
北条時政(ときまさ。政子の父、初代執権)
北条義時(よしとき。政子の弟。二代執権)
三浦義澄(みうらよしずみ)
八田知家(はったともいえ)
和田義盛(わだよしもり)
比企能員(ひきよしかず)
安達盛長(あだちもりなが)
足立遠元(あだちとおもと)
梶原景時(かじわらかげとき)
大江広元(おおえのひろもと)
三善康信(みよしやすのぶ)
中原親能(なかはらちかよし)
二階堂行政(にかいどうゆきまさ)
以上十三名から成っていました。
ようは頼家は将軍とはいっても、何もさせない。有力な御家人たちでぜんぶ決めてしまうという話です。
頼家の反撃
「ふん、ふんっ。吾に何もさせないつもりか。
お飾りというわけか。そうはいくか」
頼家は、十三人合議制への反撃として、自分の側近四人(五人とも。比企宗員・比企時員、小笠原長経、中野能成)が鎌倉で何をしても許されるという通達を政所に下し、強引に認めさせてしまいます。
「おらあ、鎌倉殿のおすみつきだ。おっ、うまそうじゃねえか」
「ああ、よしてください。売り物です」
「なにい、売りものだ、鎌倉殿のおすみつきの我らから、
代が取れると思うてか」
「無礼者が、手打ちにいたす」
「ひいい、すみません、すみません」
などと、さぞや町中で好き勝手ふるまったことでしょう。